選択の夫婦の別姓にすると、家族がこわれてしまう。家族が保てなくなる。
日本の家族のあり方をこわすことになるのが、選択の夫婦の別姓なのだろうか。
たしかに、結婚をしたさいにお互いの名字を同姓にしないで別姓にすることができるのであれば、女性が家族にしばりつけられづらくなる。しばりがゆるまる。
かんたんに女性が家族から抜け出さないようにさせる。夫婦の同姓であれば、女性が家族にしばりつけられることになり、たやすく家族から抜け出しづらい。家族への参与(commitment)が高まる。
夫婦が同姓であったほうが、家族がこわれづらいかのようだけど、むしろ、こわれづらいからこそ悪い。こわれやすいほうがむしろ良い。
女性だけが家族にしばりつけられている。女性だけが、家族への参与を高くさせられている。女性に不利にはたらいているのがあって、女性をぎせいにして、家族が保たれているのである。
たとえ家族が保たれていて、こわれていないのだとしても、女性をぎせいにしているのがあるのだから、正当性がたしかにあるとはできそうにない。正当性を問いかけてみると、たとえ家族がこわれることになるのだとしても、女性をぎせいにしないあり方に改めたほうがよい。
二つのものをとり上げてみると、家族か女性かがある。その二つのどちらをとるのかがあるとすると、家族をとるのだと、女性がぎせいになってしまう。家族を保つようにするのだとしても、女性をぎせいにするのだと意味がない。家族か女性かだったら、家族をとるのではなくて、女性をとるようにして行く。
西洋の哲学の弁証法(dialectic)で見てみると、家族をとことんまでぶっこわすものなのが、選択の夫婦の別姓なのだとはできそうにない。かりに、夫婦の同姓が家族を保つものなのだとすると、それが完全に捨てられているのではなくて、残った形になっているのが選択の夫婦の別姓だ。
選択のしかたによっては、夫婦が同姓でいることもできるのだから、夫婦の同姓が完全に捨てられているのではない。夫婦の同姓も残っているのである。弁証法における止揚(しよう)は、捨てるのと共に残すのがあり、反対の矛盾した意味あいを一つの語の中に含む。
こわしながら、建設もする。弁証法の止揚をなすことができれば、たんにこわすだけではなくて、建設することにもなる。生産される。
ただたんに家族をぶっこわすことになるのではなくて、建築や生産もされることになるのが、選択の夫婦の別姓だろう。弁証法の止揚をなすことができれば、矛盾が片づく。完全なありようになる。問題を克服して行く。第三の道を創造することがなりたつ。
そのままのありようだったら、夫婦の同姓のままであり、女性がぎせいになりつづけてしまう。家族への参与が高いままだ。女性だけ、家族への参与を高めさせられるのだとよくないから、参与を低める。そうすれば女性をぎせいにしづらくなって、楽になって行く。
そのままのあり方である夫婦の同姓にたいして、対抗するものがおきてくる。夫婦の別姓だ。(そのままのありかたに対して)対抗するものが正しいとはかぎらないけど、それらの対立を、完全なものへと持って行く。止揚することができて、第三の道を創造することができれば、完全なあり方にできる。選択の夫婦の別姓は、(第一の道でもなく第二の道でもなくて)第三の道の創造だとできそうだ。
参照文献 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『社会を結びなおす 教育・仕事・家族の連携へ(岩波ブックレット)』本田由紀 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし)