なんで、兵庫県の知事は、やめないのだろうか。いつまでも知事の地位にとどまりつづけているのだろうか。
県の役人から内部告発されたのが、兵庫県の知事である。内部告発した役人にたいして圧力をかけたことで、二人の自殺者が出ている。
いったん知事をやめる。それから出なおす。知事にはそれがいるのだと、田中真紀子氏はいう。政治家としての自分を正当化や合理化するのであれば、さっさと知事をやめて、それから出なおせばよいのだという。
役人が知事にたいして内部告発をしたのは、ねこの首に、ねずみが鈴(bell)をかけることだ。内部告発をした役人は、勇気をもったねずみだったのである。
何としてでも知事の地位にとどまりつづけたいのが兵庫県の知事である。勇気をもったねずみがいては困る。ねずみたちの中で、勇気をもったねずみがいると、ねこの首に鈴をかけられてしまう。
どうして内部告発の制度があるのかといえば、いざとなったら、ねずみたちがねこの首に鈴をかけやすくするためだろう。そうとうな勇気がなければ、ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行こうとはしづらい。
何か負のことがあったさいに、ねずみたちに勇気を持ってもらう。勇気をもってもらって、ねこの首に鈴をかけに行くのをうながす。内部告発の制度は、そのためにある。やり直し(redo)の機会を増やす。民主主義によるものだ。
少しでも矛盾を片づけやすくして行く。いつまでたっても、ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行こうとしないのだと、矛盾が片づかない。矛盾がいつまでも片づかないのだとまずいから、できるだけ片づけやすいようにするためのものの一つが内部告発の制度である。
たった一匹だけではなくて、何匹も勇気をもったねずみたちがいれば、臨界の質量(critical mass)にいたりやすい。勇気をもったねずみたちがたくさんいれば、臨界の質量にいたりやすくて、ねこの首に鈴をかけられる。
県の役所の中には、勇気をもったねずみがいた。勇気をもった役人がいたのである。ほかに、役所の中や、外にも、勇気をもったねずみたちがいっぱいいれば、早くにねこの首に鈴をかけられただろう。
いったい、兵庫県にはどれくらい勇気をもったねずみたちがいるのだろう。関西にはどれくらい勇気をもったねずみたちがいるのだろう。もっと広くは、日本にはどれだけの数の勇気をもったねずみたちがいるのかがある。
あんまり数が多くなくて、少ない。日本には、勇気をもったねずみたちがすごい少ない。日本における世間とは、勇気をもたないねずみたちの集まりである。その中で、勇気をもったねずみがいると、浮いてしまう。あたかも勇気をもつことが悪いことであるかのようにされてしまうのである。
兵庫県にかぎったことではないけど、日本において、報道のまずさがある。報道にたずさわる記者の中に、もっと勇気をもったねずみたちがいっぱいいれば、兵庫県においては知事を早くにやめさせられた。いつまでも兵庫県の知事が、知事の地位にとどまりつづけていて、ねばりつづけていられるのは、一つには報道のだらしなさがわざわいしている。
参照文献 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『希望の国の少数異見 同調圧力に抗する方法論』森達也、今野哲男(企画協力、討議) 『いじめを考える』なだいなだ 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』山田隆司(やまだりゅうじ)