れいわによって、東京都の知事の選挙をみて行く。
野党であるれいわ新選組によって、東京都の知事の選挙を見てみると、どういったことが見えてくるだろうか。
もち出される筋あいがないのが、れいわ新選組だ。なんでもち出される筋あいがないのかといえば、こんかいの東京都の知事の選挙にれいわは参与しなかったからである。党としては静観していた。
参与していなかったのだから、もち出される筋あいはないかもしれないけど、そこを逆に、もち出してみたい。
れいわは、選挙に勝てなかった。れいわと反対であるような反れいわが選挙に勝った。そうしたとらえ方がなりたつ。
少なくとも二位くらいにはなるだろうとされていた元政治家の蓮舫(れんほう)氏はなんで三位に甘んじたのだろうか。れんほう氏が負けてしまったのは、どちらかといえばれいわだったからである。
なんでれんほう氏がどちらかといえばれいわなのかといえば、共産党に支援されていたのがある。日本共産党はれいわとそう遠くない。お互いに似たところを持つ。そこまで距離が離れていない。
反新自由主義なのがれいわだ。新自由主義(neoliberalism)によるのが反れいわである。
ざんねんながら負けてしまったのがれんほう氏だけど、勝つためには、反れいわにすればよかったのがある。新自由主義によるようにする。そうすればもっと勝ちやすかった。
共産党とは組まないで、反れいわ(つまり新自由主義)によるようにしていれば、れんほう氏はもっと勝てていたかもしれない。
いがいと上位に行ったのが、石丸伸二氏だ。れんほう氏よりも上にいって、二位になった。なんで石丸氏が二位になれたのかといえば、反れいわだったからである。つまり新自由主義だったのが小さくない。
じっさいとはちがうけど、もしも石丸氏が共産党と組んでいたら、もっと負けていた。勝つことができなかった。二位になることはできなかったのである。れいわ、つまり反新自由主義だったら、石丸氏はもっと負けていただろう。
反れいわだったら勝ちやすくて、れいわだったら負けやすい。そう言うのだと、あまりにもれいわに失礼ではある。とはいえ、反れいわである石丸氏が二位になって、けっこう上の順位になったのはいなめない。
水と油のように、自分たちとは交わることはありえないのが石丸氏だ。れいわ新選組の山本太郎代表はそうしたことを言っていた。山本代表は石丸氏を反れいわであると位置づけていたけど、その石丸氏は思ったよりも選挙で勝てた。
選挙で勝つか負けるかでは、新自由主義は勝ちやすい。何だかんだいっても新自由主義だと勝つことができやすいのだ。日本の政治はそうしたところがある。
負けやすいのが反新自由主義だ。反新自由主義で、正義論を言う。それだと負けやすい。こうしたほうがよいとかああしたほうが良いといった正義論を言うのは色々に言えるけど、それだからといって勝てるとは限らないのである。
これから先もずっと反新自由主義のままだったら、れいわは選挙で勝ちづらいだろう。たんに正義論を言うだけだったら、勝ちづらい。正義論は色々に言えるけど、そうだからといって勝てるようになるのではない。
いままでとあり方が変わってしまうのは良くないことかもしれないけど、れいわが勝つためには、変質すればよい。変質してしまって、正義論はあんまり言わないようにして、それはひかえめにして、反新自由主義をやめてしまう。新自由主義を全否定しない。
なんで新自由主義を全否定しないようにするのをすすめるのかといえば、そのほうが選挙で勝ちやすいからである。れいわが勝ちたいのだったら、変質してしまって、反新自由主義を捨ててしまう。新自由主義を少しは認める。または大いに認める。そうすれば勝ちやすくなりそうだ。ただたんに勝ちたいだけだったら、変質してしまうのもありだろう。
参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『教育 思考のフロンティア』広田照幸 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや)