もしも、れんほう氏が選挙で負けなくて勝っていたらどうだったのだろうか。
じっさいには、選挙で負けてしまったのが蓮舫(れんほう)氏だ。
ざんねんながら東京都の知事の選挙で負けて三位になってしまったのがれんほう氏だけど、仮定の話としてもしも勝っていたらどういうふうになったのかがある。
小池百合子都知事は、動物でいえば猫だ。猫の首に、ねずみたちが鈴をかけに行く。鈴をかけることができるかどうかがあった。
多くの票がれんほう氏に集まっていれば、臨界の質量(critical mass)にまで達することがなりたつ。臨界の質量にまでいたれれば、東京都が抱えている矛盾が片づく。
おもっていたよりも、量が足りなかった。臨界の質量にまでとどかなかった。ねこの首に鈴をかけに行こうとするねずみの数が、そこまで多くはなかったのである。
もともとあんまり臨界の質量にいたりづらいのが日本の政治にはある。ねずみたちが、ねこの首に鈴をかけに行こうとしづらい。鈴をかけに行くことに協調しないのがあり、非協調なのがある。
みんなでねこの首に鈴をかけに行こうとすることができれば、みんなで協調し合える。矛盾が片づきやすい。協調し合えるのではなくて、非協調なのが多いと、なかなか矛盾が片づかなくて、社会のありようが良くならない。
必ずしもれんほう氏が選挙で勝たなくてもよいのがある。ほかの人ではだめで、れんほう氏でないとならないのだったら必要十分条件だ。何が何でもれんほう氏でなければならないわけではなくて、かんじんな点は、臨界の質量にまでいたることができるかどうかだ。
国の政治だったら、政権を交代して行く。政権の交代は、臨界の質量にまでいたらないとできないことだ。ずっと与党である自由民主党が権力をにぎりつづけてしまう。
なんだかんだいって自民党がいつまでも権力をにぎり続けられているのは、日本の政治では臨界の質量にまでいたりづらいのがあるからである。ねこの首に鈴をかけることがなされない。みんなが協調し合うことができていなくて、非協調なあり方になっている。
東京都の知事の選挙においては、れんほう氏と日本共産党がいっしょになって選挙を戦った。お互いに協調し合うようにすれば、臨界の質量にまでいたりやすくなる。
ねずみどうしでお互いに協調し合うのが良しとされない。協調し合うのではなくて、非協調であるべきだとされるのがあり、それでれんほう氏と共産党がいっしょになって選挙を戦ったことが、しつように批判されているのである。
国の政治においては、ねずみたちである野党どうしで、なかなか協調し合えていない。野党どうしのあいだで分断がおきている。非協調のあり方になっているのがあり、いつまでも矛盾が片づきづらい。
なんで、れんほう氏は勝てなかったのか。東京都の知事の選挙で負けてしまったのか。いっしょに共産党と戦ったことが、なんできびしく批判されているのか。選挙が終わったあとになってもれんほう氏が叩かれつづけていることの背景には、日本の政治では臨界の質量にまでいたりづらいことが関わる。
けっきょくは、選挙で負けてしまった。けっきょくのところ、ねこの首に鈴をかけることができなかった。鈴をかけることには失敗してしまったのはあるけど、あるていどまでそれができつつあった。臨界の質量にまでとどくかもしれないといったのぞみが少しだけおきた。
いぜんとして矛盾が深い。いっこうに矛盾が片づいてはいないけど、非協調な中で、協調の動きがおきているのがある。いっしょになって協調し合い、ねこの首に鈴をかけに行こうとするねずみたちがおきているのがあり、そこは良いところだ。
日本の政治においては、ねずみたちがどれだけ協調し合えるかがこれからの課題だ。非協調なのが強すぎていて、国の政治なんかでは、野党どうしが分断してしまっているのがあるから、改善しないとならない。ねずみたちである野党どうしが、協調し合い、臨界の質量にまでいたるように努めて行く。矛盾を片づけるためにはそれがいる。
参照文献 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『現代政治理論』川崎修(おさむ)、杉田敦(あつし)編