なんで、選挙が終わったあとになっても、れんほう氏は叩かれつづけているのだろうか。
東京都の知事の選挙で負けたのが蓮舫(れんほう)氏だ。二位にはなれるだろうとされていたけど、三位に甘んじることになった。
日本共産党から支援されていたのがれんほう氏だ。共産党から支援されていたから負けたんだ、との見かたが投げかけられている。
価値で見てみると、勝ったことのよし悪しと、負けたことのよし悪しがある。
民主主義は、数によって勝ちと負けを決める。数で割る。
とりあえず、数によって勝ちと負けが決まったのだから、それでよい。勝った者と負けた者が決まったのだから、いちおうは良しとできそうだ。
悪い者が勝ったのであれば、勝った人が叩かれる。なんで悪い者が勝ったんだということになって、勝った者をたたく。勝つべきではない人が勝ってしまったのである。
良い者が負けたのであれば、その人を叩くのはおかしい。負けたことをくやしがるのなら分かるけど、たたくのは変である。たとえ負けたのだとしても、その人が良いのであれば、叩かなくてよいはずだ。
悪い者が負けたのであれば、負けるべくして負けたことになる。うなずける。なっとくが行く。よい結果が出たのである。悪いから負けたんだから、負けた人を叩くことはいらないのである。負けてとうぜんなのだから、放っておくだけでよい。
事実と価値の二つにふ分けしてみると、勝ったからといって良いとは限らないし、負けたからといって悪いともかぎらない。小池百合子都知事は勝ったけど、だからといって良いとは限らないのである。
なんで小池都知事は勝ったのにもかかわらず、その勝ったことの事実をもってして良いとは言い切れないのかといえば、象徴化されているからである。小池都知事がもっている否定の契機が隠ぺい化されている。負の契機がかくされた中で勝ったのである。
負のところが切り捨てられて捨象(しゃしょう)されているのが小池都知事なのだから、勝ってもそこまですごくはない。そこまですごくはないから、一位になって勝った小池都知事にはあまり目が向けられていない。それよりも負けて二位や三位になった人に、より目が向けられている。勝ったことに、そこまで価値がないことが分かる。
負けたけど、良い。三位になったけど、良い。負けたけど良いのがあるから、れんほう氏は叩かれつづけているのである。このさい、じっさいのれんほう氏であるよりも、それを広げてみて、れんほうのようなものだとしてみたい。
れんほうのようなものは、じっさいのれんほう氏と類似性をもつ。おなじ類に当てはまる。れんほう氏をより上回るような、超れんほうがいる。超れんほうとしては、同じ女性の政治家である、野党であるれいわ新選組の女性の政治家たちがいる。
それなりの批判の力を持つのがれんほう氏だ。超れんほうである、れいわ新選組の女性の政治家たちは、もっとすごい。れんほう氏は怖いとされているけど、もっと怖い。よい意味で怖いのである。
改めて見てみると、負けたのにもかかわらずれんほう氏がしつように叩かれているのは変なのがある。負けたのに叩かれつづけているのは、排他が強まっているからだろう。ぜい弱性(vulnerability)をもつ者への排他の動きの強まりである。
広いものとしての、れんほうのようなものは、良い価値をもつ。れんほうのようなものの類の、種に当たるのが、じっさいのれんほう氏だ。ほかに種に当たるものとしては、共産党がいる。れいわ新選組の女性の政治家たちがいる。
じっさいのれんほう氏を叩くことによって、間接として、れんほうのようなものを叩くことになる。上位にあるのが類で、下位にあるのが種だ。類の中の一つの種なのがじっさいのれんほう氏だ。
いくつもある中の一つの種を叩くことで、(類の中の)ほかの種を間接として叩く。れんほう氏が叩かれるのは、間接として、(超れんほうである)れいわ新選組の女性の政治家たちを叩くことにもなっていそうだ。
批判の力がたかい政治家は、与党である自由民主党にとってはいてほしくないから、すごく叩かれることになるのである。良い価値を持つものだと、(変なことではあるけど)たとえ負けても叩かれることになる。れんほう氏はその一つの事例である。
参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣(ひろし) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき)