しつように、れんほう氏が叩かれていることを、どのように見なせるだろうか。
選挙が終わって、負けたのが蓮舫(れんほう)氏だ。東京都の知事の選挙で負けたれんほう氏にたいして、しつように批判が投げかけられている。
選挙で三位になったれんほう氏は否定のあつかいだけど、同じく負けた二位の候補者は、なぜかしきりとテレビ番組などで持ち上げられている。
同じく負けたのにもかかわらず二位の候補者はやたらとテレビ番組に出まくっている。そこまで得た票に大きな差がないのであれば、二位がちやほやされているのなら三位もまたちやほやされていないと平等ではない。
たしかに、完ぺきに正しい政治家だったとまでは言えないのがれんほう氏だ。だれがどう見ても完全に正しいことを言ったりやったりしていたわけではない。
ものすごい良い政治家だったのだとまでは、基礎づけたりしたて上げたりすることはできないのがある。反基礎づけ主義からすると、政治家としてとんでもなく良いとまでは基礎づけたりしたて上げたりすることができないことになる。
権威がない状態になっているのがいまの日本の政治だろう。戦争の状態だ。社会の状態が崩れているのである。
人民が契約によって国を支配して行く。そのためのりくつなのが社会契約論である。人々がお互いに契約し合い、集団を形づくる。集団化だ。個人が権利(の一部)を集団にゆずりわたす。そのことによって、たった一人で孤立しているよりも、より個人の権利を守れるようになる。より個人が守られるようになる。
お互いに人々が契約し合う前に戻ってしまっている。契約する前に戻っているところがあるのがいまの日本のありようだろう。個人の権利が守られていない。個人が危険にさらされやすい。危険の個人化がおきている。
戦争の状態では、万人の万人にたいする闘争になる。それぞれの個人どうしがお互いに戦い合う。個人どうしが、お互いに死ぬまで戦いつづける。
自己欺まんの自尊心がある。すべての個人はそれをもつ。虚栄心だ。それぞれの個人は虚栄心をもっていて、お互いにぶつかり合うことになる。虚栄心にかられて、つき動かされてしまう。
なんとかして戦争の状態(自然の状態)を脱して行く。戦争の状態を脱して社会の状態を築いて行く。日本の政治ではそれがいるのがある。
かんじんなことは、政治家としてのれんほう氏が正しいか、それともまちがっているかだけにあるのだとはできそうにない。れんほう氏が正しいかまちがっているかも大事ではないわけではないけど、それとは別に、日本の政治で、戦争の状態を改めて行く。戦争の状態を止揚(しよう)させて行く。悪いありようを止揚させて、社会の状態にして行くことがいる。
どの個人も虚栄心をもっているから、れんほう氏もその例外ではない。あらゆる政治家は、自己を正当化する。自己を合理化する。自分のことを全否定する政治家はいないのである。
自分のことを正当化や合理化しすぎると、不毛な争い合いになってしまう。戦争の状態だと、個人どうしが不毛な争い合いをしつづけることになるから、それを改めて行く。止揚するようにして、社会の状態に持って行くようにしたい。
いまの日本の政治では、戦争の状態になっているところがあり、権威がない状態だ。お互いにかみ合った議論が政治においてなされていない。かみ合わないものであるすれちがい答弁が平気でまかり通っている。
一つの立ち場だけではなくて、少なくとも二つの立ち場がないとならないのが民主主義だ。与党だけだったら一つの立ち場だけど、それに加えて野党の立ち場もないとならないのが民主主義だ。
与党だけしか良しとされていないところがあるのが日本の政治だ。与党の自由民主党の一強のあり方であり、他弱(多弱)になっている。民主主義が壊れているのである。
中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)である。いまは与党の自民党の一強だけど、かりに自民党が野党であったとする。自民党が野党であったとしたら、与党のことをばしばしと批判するはずなのである。めちゃくちゃに批判しまくるにちがいない。
もしも自民党が野党だったとしたら、与党のことをめちゃめちゃに批判するはずなのだから、自民党が与党のさいには、野党からきびしい批判をばんばん受けないとならないのである。
社会における平等のことなのが正義だ。たとえどこの政党が与党だったとしても、野党からきびしい批判をびしばしと受けるのでないと正義ではない。
日本の政治では、正義が崩れてしまっている。もしも自民党が与党だったら、与党を批判してはならない。もしも自民党が野党だったら、与党のことをどんどん批判して良い。自民党が特権をもつ。不平等なあり方だ。甘えの構造である。
そもそもの話として、どの政党が与党であったとしても、野党からのきびしい批判がどんどんなされないとならない。どの政党が与党であったとしても、同じあり方がとられるのでないと、普遍(ふへん)ではない。
つねに当てはまる性質なのがふへんだ。ふへんのあり方でないと、倫理によることができなくなる。ふへんではなくて、特殊におちいっているのが日本の政治である。固有の性質なのが特殊だ。
いまいちどふへんの大事さを見直して行く。ふへんによるのでないと倫理によることができないから、政治で悪いことがなされてしまう。大前提の価値観として、そもそも、自民党だけ特権をもっていてよい。自民党だけ甘やかされてもよいのだとなってしまっていて、そこに日本の政治のおかしさがある。
立ち場にかたよりがありすぎていて、自民党が中心化されているのがある。全体化されている。立ち場のかたよりを改めるようにして、脱中心化や脱全体化をして行かないとならない。
もっと野党の立ち場を認めて行かないと、立ち場が中立にならないから、野党を排除しないで包摂することがいる。たとえば日本共産党に代表されるような、反対の勢力(opposition)である野党を、いかに包摂することができるのかが日本の政治のかぎである。
参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『法哲学入門』長尾龍一 『政治のしくみがわかる本』山口二郎 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき)、熊野純彦(くまのすみひこ)編 『人を動かす質問力』谷原誠 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし)