れんほう氏 vs 朝日新聞:はげしい言葉の戦いがくり広げられている

 朝日新聞の記者が、れんほう氏を叩いた。ウェブの X(Twitter)のつぶやきにおいてだ。

 叩かれた蓮舫(れんほう)氏は、朝日新聞の記者を叩き返した。朝日新聞に批判を投げかけている。

 れんほう氏が朝日新聞を叩き返したことは、良いことなのだろうか。一部からは、言論の弾圧だとの声もあがっている。

 むしろ、朝日新聞を叩くことではなくて、その逆に、れんほう氏を叩くことが、言論の弾圧になる。どちらかといえばそう見なせるところがある。声をあげている人を叩いてしまっているからだ。私はだまらない(黙るつもりはない)、とれんほう氏は X でつぶやいている。

 いっけんすると、れんほう氏と朝日新聞(の記者)とがぶつかり合っているようだけど、中身が入れ替わっているところがある。れんほう氏が朝日新聞であり、朝日新聞朝日新聞を叩いているようなものだ。

 じっさいの朝日新聞は、左派の新聞社なのだとはできそうにない。右傾化していっているのである。朝日新聞がやらなければいけないことをれんほう氏が代わりにやっているのである。

 思想の傾向(ideology)をもち出してみたい。なんで朝日新聞にたいして批判がいるのかといえば、国の思想の傾向の装置だからだ。

 国の思想の傾向にたいして、批判を行なう。朝日新聞は、それをやらないといけないのだけど、ろくにやっていない。なまけている。国の思想の傾向を批判することがいるのだけど、批判されるものになってしまっている。つまり、朝日新聞が、国の思想の傾向の装置になり果てているのである。

 やるべきことをやっていないのが朝日新聞であり、批判をされなければならない。朝日新聞を批判することは、たんにそれで終わるだけではなくて、国の思想の傾向を批判することにもなる。

 良いことをやっているのではなくて、良くないことをやっているのが朝日新聞だ。よくないところが目だつ。そうかといって、朝日新聞に批判を投げかけているれんほう氏が、まったく何の思想の傾向ももっていないわけではない。れんほう氏もまた、思想の傾向をもつ。

 朝日新聞がもっているべき思想の傾向を、れんほう氏がもつ。れんほう氏が朝日新聞(の記者)から叩かれているのは、朝日新聞朝日新聞を叩いているのを示す。朝日新聞朝日新聞をだめにしているのである。

 目を覚ますことがいるのがいまの朝日新聞だ。目を覚まさせることをやっているのがれんほう氏だろう。右傾化していっていて、国の思想の傾向の装置になり果てているのがいまの朝日新聞なのだから、改善されることがいる。

 罪悪感や、うしろめたさがあって、それでれんほう氏を叩いているのが朝日新聞(の記者)だろう。やるべきことをさぼっているのがあって、その罪悪感やうしろめたさから、れんほう氏を叩く。やるべきことをやっている人の足を引っぱっているのである。

 せめて、良いことをやっている人(れんほう氏など)の足を引っぱることはやめるべきである。助けるとまでは行かないのにしても、じゃまをするべきではない。いわば、れんほう氏は、仕事をしている朝日新聞だ。それにたいしてじっさいの朝日新聞は、仕事をろくにしていない(仕事をさぼっている)朝日新聞だとできそうだ。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『希望の国の少数異見 同調圧力に抗する方法論』森達也、今野哲男(企画協力、討議) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)