れんほう氏の政治の活動で問われる、政治家が叩かれることの正当性:正当性を問いかけてみる

 ほかの政治家を叩く。れんほう氏はそれをやっていた。

 ほかの政治家は叩いてもよいけど、自分は叩かれたくない。自分が叩かれることを受け入れないのは、良くないことなのだろうか。

 まさに叩かれるべくして叩かれているのが蓮舫(れんほう)氏なのかには、疑問符がつく。

 叩くことと、叩かれることの二つを、ふ分けしてみたい。

 れんほう氏がほかの政治家を叩くのにおいて、れんほう氏は主体だ。叩かれる相手は客体である。

 ほかの人たちかられんほう氏が叩かれるのにおいて、れんほう氏は客体だ。主体の相手なのが客体である。

 主体つまり行動者として、れんほう氏がほかの政治家を叩く。そのさいに、事実と価値の二つをふ分けすることがなりたつ。れんほう氏によってほかの政治家が叩かれるのは事実にとどまる。

 事実にとどまるものなのが、れんほう氏がほかの政治家を叩くことだ。事実から、自動では価値をみちびけない。自動で価値をみちびいてしまうと自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。

 ほかの政治家がれんほう氏から叩かれたからといって、そうであるべきではなかったのだとはできそうにない。れんほう氏は叩くべきではなかったと結論することは必ずしもできない。叩くべきだったとすることもなりたつ。一つの価値としては、叩くべき政治家をれんほう氏は叩いたのだとすることがなりたつ。

 ほかの人たちかられんほう氏が叩かれるのは事実だけど、そこから自動では価値をみちびけそうにない。まさに叩かれるべくしてれんほう氏が叩かれているのだとは必ずしも結論することはできないのである。叩かれるべきではないのにもかかわらずれんほう氏が叩かれてしまっているとすることもなりたつ。

 かりに、まさに叩かれるべくしてれんほう氏が叩かれているのだと結論するのであれば、こういうこともまたできることになる。まさに叩くべくしてれんほう氏はほかの政治家を叩いていたのである。れんほう氏によって叩かれた政治家は、まさに叩かれるべくして叩かれていたのだと結論することもなりたつ。

 主体としてれんほう氏がほかの政治家を叩いたさいに、そうするべきだったのだとする価値もあるし、そうするべきではなかったとする価値もある。二つの価値がある中で、そうするべきではなかったとする価値だけが絶対に正しいのだとはできそうにない。

 客体としてれんほう氏が叩かれているさいに、そうであるべきだとする価値もあるし、そうであるべきではないとする価値もなりたつ。そうであるべきだとする価値だけが絶対に正しいものだとすることはできそうにない。

 事実においては、主体としてれんほう氏が叩いているのや、客体としてれんほう氏が叩かれているのがある。事実としてはそれらがあるけど、それらの事実をもってしてそこから自動では価値をみちびけないから、価値は色々だ。

 客体としては、れんほう氏に叩かれたり、れんほう氏が叩かれたりする。客体にれんほう氏が当てはまらないこともあれば、当てはまることもあるけど、いずれにしても、その客体が叩かれることが正当なのかどうかは、いちがいには決めつけられそうにない。客体がれんほう氏ではないのにせよ、れんほう氏であるのにせよ、いずれにしても、その客体が叩かれることが正当なこともあれば、正当ではないこともあるだろう。

 叩かれるべきではないのにその客体が叩かれてしまっていることもあるし、叩かれるべくしてその客体が叩かれていることもある。れんほう氏ではない人が客体であるさいに、その客体が叩かれるべきではないことがあるのであれば、れんほう氏が客体であるさいにも、客体としてのれんほう氏が叩かれるべきではないことがある。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『法哲学入門』長尾龍一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司(みちたやすし) 宮元博章(みやもとひろあき) 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)