パレスチナを救う思いと、日本のへんな自己責任論

 そんなに気になるのだったら、現地へ行け。自分でそこの現地に行くべきだ。パレスチナのことで、そうしたことが言われているという。

 イスラエルから暴力をふるわれているパレスチナのことを救いたい。そう思うのであれば、自分が武器をたずさえてパレスチナの現地に行かなければならないのだろうか。

 朝日新聞の質問と回答の記事がある。その中で、回答者が質問者にたいして、自分でパレスチナに行くべきだと答えたのだという。

 自分でパレスチナに行くべきだと質問者に答えた回答者は、どういう立ち場をとっているのだろう。おそらく、イスラエルアメリカのことをよしとする立ち場をとっているのだろう。

 パレスチナにたいして冷たい。温かくないのが回答者である。パレスチナをあまり救おうといった思いを持っていない。朝日新聞社もまたその思いがうすい。だからパレスチナに冷たい内容の記事を新聞にのせたのである。

 アメリカはどういう国の性格なのかといえば、自己責任のありようだ。個人主義によっている。個人が責任を引きうける。責任を負うかぎりにおいて個人の自由がよしとされているのである。

 アメリカと比べて日本はどういう国の性格をしているのだろうか。アメリカとはちがって日本は集団主義のところがある。経済は新自由主義(neoliberalism)であり、自己責任論がとられているのがあるけど、そのいっぽうで、保護と観察(監視)のところが大きいのが日本である。保護されるかわりに監視される。干渉される。国だけではなくて世間の目をふくむ。

 危ないところへ日本人が行く。日本人がどこか危ないところへ行ったら、ほめられないで批判を受ける。たたかれてしまう。危ないところへかってに行ってはいけない。日本ではそういったあり方がとられている。

 なんでそんな危ないところへかってに行ったんだ、と叩かれてしまうのが日本のあり方だろう。新聞の回答者がいうように、自分で好きに危ないところへ行くことが良しとはされていないのが日本である。

 へんな自己責任論のあり方になっているのが日本だ。自分の意思で、自分で責任を負って危ないところへ行ったのだとしたら、その人はほめられても良いのがある。報道の記者なんかが、ほかの人に知らしめるために、危ないところへ行く。だれかがそこへ行かないと、そこについてを知ることができないのである。

 価値については色々にとらえられるのがあるのは確かだ。だれかが危ないところへ行くことが、良いことかもしれないし、良くないことかもしれない。正の価値をもつかもしれないし、負の価値をもつかもしれない。どちらでもありえる。

 安全なところから、危険なところへ行く。そこで危ないめにあう。危ない目にあったとしたら、いったいだれの責任なのだろうか。危ないところへ行くことをうながした回答者に責任はいっさいないのだろうか。

 万が一のさいに、記事をのせた朝日新聞社にはまったく何の責任もないことになるのかどうかがある。回答者や会社にまったく何の責任もなくて、無責任でよいのかどうかは定かではない。もしも(行った人の)自己責任にされてしまうとしたら、そこにはたしょうの疑問がわく。

 保護と観察のところが強いのが日本のあり方なのだから、必ずしも自分が危ないところへ行くのでなくてもかまわないのがありそうだ。保護と観察が強いのにもかかわらず、そのいっぽうでへんな自己責任論になっているのが日本だから、そこを批判して行く。

 へんな自己責任論のあり方になっているところを批判するようにしたい。記者なんかがもしも危ないところへ行ったとしたら、その人はほめられるのがあっても良いのではないだろうか。そういう人をほめないで叩くことが多いのが日本のありようだ。危ないところへ自分で行けと言う人がいるくらいなのだから、必ずしもみんなでよってたかっていっせいに叩かなくてもよい。(全てとは言えないのにしても)中にはほめられるに値するような事例もあるだろう。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 「三島由紀夫 最後の言葉(新潮 CD)」新潮社