政治のうら金と、平等の問題

 新しく法を作る。そうすれば、政治のうら金の再発を防げるのだろうか。

 よりよい法に改めて行く。法の決まりを改善しさえすれば、政治のうら金が作られることを防げるのかといえば、そうとは言い切れそうにない。

 制度の正義なのが、法の決まりだ。正義とは、社会における平等のことをさす。

 不平等なのが明らかになったのが、政治のうら金だ。与党である自由民主党にだけ甘い。それいがいにはきびしい。上には甘くて、下にはきびしい。平等ではないのがろていしている。

 まだないものではなくて、すでにある制度がある。げんにあるものとしては、いまの日本の憲法がある。憲法では平等がよしとされている。不平等がいましめられている。そうであるのにもかかわらず、憲法が守られていない。自民党憲法をないがしろにして軽んじているのである。

 もしも自民党憲法をしっかりと守るようにするのであれば、平等になりやすい。不平等がおきづらい。

 ぎゃくにいえば、平等にしたくない。不平等にしたい。自民党はその思わくをもつ。上には甘くて下にはきびしい不平等なあり方にしつづけておきたいから、憲法を守ろうとしないのである。

 いくら新しい法の決まりを作るのだとしても、そもそもの話として、上には甘くて下にはきびしいあり方が温存化されつづけてしまう。

 うら金が作られるのを防ぐための新しい法の決まりを作るのだとしても、上には甘くて下にはきびしいあり方が無くなることの絶対の保証はないのである。うら金が作られることを防ぎ切れない。再発の防止になるかが定かではないのがある。

 上に甘いのであれば、下にも甘くして行く。下にきびしくしているのであれば、上にもきびしくして行く。上と下であつかいをそろえるのでないと、正義にならない。上と下であつかいに差をつけてしまうと、社会における平等をなして行くことにならないのである。

 どういうところに気をつけることがいるのかといえば、制度において、上と下のあつかいのあり方だ。制度においては、上と下であつかいに差があることがあり、上である強者に益になっていて、下である弱者には損になる。上の強者は益を得やすくて、下の弱者は損をこうむりやすい。そういうふうに制度がなっていることがしばしばある。

 上位の次元(meta)に目を向けて行く。上位のところにあるのが憲法であり、そこでは平等がよしとされているのがある。平等化して行くことができるのがあるけど、それをきらっているのが自民党だろう。平等化したくない。不平等であったほうがよい。格差があったほうが自民党にとってはよいのである。

 同じものには同じあつかいをして行く。正義の原則だ。政治のうら金では、正義の原則に反したことがなされている。原則に反しているのがあり、不正義(不正)になっている。それで色々な批判の声が人々からおきているのである。

 あくまでも、自民党はほかのものとはちがう。ほかのものよりも一段ほど上にあるのが自民党だ。同じなのではなくてちがうものなのであれば、ちがうあつかいであってもよい。正義の原則が当てはまらない。

 修辞学でいわれる議論の型(topos)がある。型において、類似からの議論であれば、同じものに当たることになり、同じあつかいにしなければならない。そうではなくて差異からの議論もまたあり、ちがうものなのであれば同じあつかいにしなくてよい。

 ほかのものとはちがう特別なあつかいになっているのが自民党だろう。差異からの議論によっている。この特別あつかいを、はたして普遍化することができるのかといえば、それができるとは言えそうにない。普遍化することができない差別のあつかいになっているのである。

 普遍化することができない差別をなくして行く。不平等なのを、平等化して行く。政治でうら金が作られるのをなくすために、社会における平等をなして行くことがいる。そのための制度はすでにあり、自民党憲法を守るようにすればよい。

 より上位のところに目を向けてみれば、平等をよしとしているのが憲法なのだから、それを自民党が守ろうとせずにやぶっているのがわざわいしているのである。憲法を守るようにしないかぎり、平等化がさまたげられつづけることになるから、政治のうら金が作られることを防ぐことができづらい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫法哲学入門』長尾龍一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『縦並び社会 貧富はこうして作られる』毎日新聞社会部