政治のうら金についての疑いと、元首相

 うら金についての疑いはまったくない。森喜朗元首相に、うたがいがまったくないとしているのが岸田首相だ。

 でんわで聞いてみたら、森元首相にはうたがいがまったくないことがわかったのだとしているのが与党である自由民主党岸田文雄首相である。ほんとうに森元首相にはうら金についての疑いがないのだろうか。

 白と黒と灰色の三つの色で見てみると、森元首相をまっ白だとしているのが岸田首相だろう。本当に白なのかどうかといえば、そうとはできそうにない。少なくとも灰色なのが森元首相だ。

 まったく疑いがないとできるほど白いのではないのが森元首相である。少なくとも灰色なのだから、裏にいるのではなくて、表に出てきてきちんとうら金のことについて説明の責任(accountability)をはたす。それがいるのが森元首相である。

 白だったら潔白だ。黒だったら悪いのが明らかである。灰色はその中間に当たる。灰色だとしたらいったい政治家または公人はどうするべきだろうか。

 完全に白なのではなくてたとえ灰色であるのだとしても、説明しなくてよい。説明の責任をはたさないでよい。とりわけ安倍晋三元首相の政権の時からそうなってしまっている。まちがった悪いあり方になっているのがあり、いまだに改められていない。

 立証や挙証の責任を負っているのが政治家だけど、その責任がほかの者に転嫁されてしまう。責任の転嫁だ。

 いまいちど、どこに責任のありかがあるのかを確かめてみる。立証や挙証の責任がどこにあるのかだ。安倍元首相のときに、その責任が政治家には無いことにされてしまった。政治家を批判する人が、責任を負う。そうされてしまった。

 責任を転じてみる。ふさわしいところに責任を転じるようにする。政治家を批判する人に責任があるのではなくて、政治家じしんが責任を負う。政治家じしんが責任を負うのがあり、立証や挙証の責任をはたさないとならない。

 修辞学でいわれる先決の問題の要求がある。先決の問題として解決や証明が求められるものだ。うら金のことでは、森元首相をふくめて、当事者の政治家が立証や挙証の責任をはたして行く。説明の責任をはたすことがいる。

 疑いがないものは、とにかく疑いがない。悪いことをやっていないものは、とにかくやっていない。そうするのだと、循環の論法になってしまう。論点の先取である。はじめに結論が決められてしまっていて、その結論をくり返しているのにすぎない。ふむべき手つづきがすっ飛ばされていて、とちゅうの過程(process)が欠けてしまっている。結論を支えるための支えが無い。

 とちゅうの過程のところを重んじて行く。手つづきをしっかりとふんで行くようにして、先決の問題として解決や証明がいることを片づけて行く。うら金のことではそれがいるのがあり、自民党の当事者の政治家が立証や挙証の責任を十分にはたさなければならないのがある。

 政治家を批判する人に責任をなすりつけてきたのが安倍元首相のときだから、そのときからつづいている悪いあり方を改めて行く。批判者を排除するのではなくて、包摂して行く。批判者を包摂して行くようにしないと、政治においてのよくない思想の傾向(ideology)がどんどん強まってしまう。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『社会認識の歩み』内田義彦 『追及力 権力の暴走を食い止める』森ゆうこ 望月衣塑子(いそこ) 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『反論が苦手な人の議論トレーニング』吉岡友治(ゆうじ) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『考える技術』大前研一名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』山田隆司(やまだりゅうじ)