枠組み(framework)のずれによる被災者の救済の問題

 助けの手がとぼしい。それで、難民になってしまう。難民化してしまう。被災した地の人たちがである。

 こんかいの能登(のと)半島の大きな地震で、被災した地の人たちが難民になっている。そう言われているのがあるけど、それをどのように見なすことができるだろうか。

 三つのものが難民(sufferer)にはあるという。避難民(refugee)と、流難民(るなんみん、りゅうなんみん)と、耐難民(たいなんみん)だ。

 能動で移るのが避難民で、受動で移るのが流難民(exile)だ。そこの地域で苦しみにさらされてがまんさせられてしまうのが耐難民(resistant)である。たとえば日本では耐難民は沖縄県の人たちや在日の人たちなどだ。

 被災した地の人たちが、難民になってしまう。従属の階層(class)や被収だつ者(subaltern)になってしまう。

 ゆうべんで、論力が高い。そうであれば従属の階層や被収だつ者にはなりづらい。声が大きい人であれば従属の階層や被収だつ者になりづらいが、声が小さいとそうなりやすい。

 ちんもくを強いられる。論力が低くさせられている。従属の階層や被収だつ者は、声なき声を発することになる。何かと声が大きい(声が大きいだけの)人の意見ばかりが通りがちなのが世の中だ。声が小さい人の声はかき消されてしまう。ぜい弱性(vulnerability)をもつ人の声は受けとめられづらい。

 枠組み(framework)をもつ。被災した人たちがもつ枠組みがあって、それは当事者がもつものだ。

 当事者がもつ枠組みにどれだけ近いか。近ければ近いほど、当事者が救われやすい。遠いと、当事者が救われづらい。

 こんかいの能登半島の大きな地震では、被災した人たちがうまく救われなかったのがあるという。いまもってうまく救われていない。なんでうまく救われていないのかといえば、当事者のもつ枠組みから遠くなってしまっているのがわざわいしていそうだ。

 どのように被災した地や、被災した人たちをとらえるか。たとえどのようにとらえるのだとしても、枠組みを抜きにすることができづらい。枠組みを通してしか、被災した地や被災した人たちをとらえることができづらいのである。

 当事者のもつ枠組みとはずれた枠組みによって、被災した地や被災した人たちをとらえてしまった。枠組みがずれていて、当事者とは遠い枠組みによってしまったのがあり、それによって救われないことがおきてしまったのである。

 ずれがなくて、枠組みが合っていれば、被災した人たちはもっと救われた。当事者が十分に重んじられて、当事者がもつ枠組みと合っていれば、被災した人たちがもっと救われることが見こめた。

 できるだけ被災した人たちを救って行くためには、当事者がもつ枠組みと合うようにして、ずれないようにして行く。当事者がもつ枠組みとずれてしまうと、被災した人たちが救われなくなってしまう。

 与党である自由民主党や、都道府県なんかは、上の枠組みだ。上がもつ枠組みと、下の枠組みとが合っていない。上には上の枠組みがあって、それを通して被災した地や被災した人たちを見て行く。

 上と下がずれてしまう。おたがいの枠組みがずれてしまうと、下が救われなくなってしまう。下が当事者なのだとすると、上は第三者や局外者に当たる。

 上の枠組みを優先させるのではなくて、下の枠組みを重んじて行く。そうすれば、下にいる当事者が救われやすい。下の当事者が難民になりづらくなり、従属の階層や被収だつ者になりづらい。できるだけ下の当事者の枠組みとずれないようにして、合うようにして行きたい。

 参照文献 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『難民 exile 思考のフロンティア』市野川容孝(いちのかわやすたか) 小森陽一構築主義とは何か』上野千鶴子編 『論力の時代 言葉の魅力の社会学』宮原浩二郎(こうじろう) 『現代思想を読む事典』今村仁司