被災した地に行く(野党の)政治家の行動:正義と不正のはざ間で

 政治家が、被災地に行く。すぐに政治家が被災地に行くのは、正義なのだろうか。それとも不正なことなのだろうか。

 こんかいの能登(のと)半島の大きな地震では、政治家がすぐに被災地に行くのは不正だとされているのがある。上から行かないように求められている。政治家が行くとじゃまになったりさまたげになったりするのだという。

 行かないでほしいとする上からの求めがある中で、被災地に行ったのが野党の政治家だ。野党の政治家の行ないは不正だとする見かたがある中で、正義だとする見かたも根づよい。正義をなしたのだとする見かたも少なからずある。

 やっかいなのは、正義とは何かの点だ。正義は価値だ。法(rule)の価値の代表となるものである。道徳や倫理として良いものなのが価値である。

 社会における平等のことなのが正義である。

 なかなかむずかしさがあるのが正義である。積極には定義づけしづらい。消極に言えるのにとどまる。不正がないのであればそれはいちおう正義と言える見こみがある。

 野党の政治家が被災地に行ったけど、それを不正だとは言えないのであれば、いちおう正義である見こみがある。消極にはそう見なすことがなりたつ。

 具体論ではなくて抽象論によって見てみたい。いっぱんとして見てみて、どこかで大きな災害がおきて、その被災地にすぐに政治家がおもむく。その行ないを不正だと見なすことができるのだろうか。

 明らかに被災した地に行った政治家が不正をなしたと見なすことができるのかと言えば、そうとは見なしづらいかもしれない。明らかな不正だとまでは言い切れそうにない。となると、その政治家は正義をなした見こみはある。

 被災した地に政治家が行く。または行かない。行く政治家もいれば、行かない政治家もいる。その二つのどちらであったとしても、自分の行ないを正当化する。合理化するのである。いかに行くのが正当なことなのか、またはいかに行かないことが正当なことなのかを示す。

 被災した地に行くことそのものや、行かないことそのものとはちがう点をあげられる。行くことや行かないことそれそのものではなくて、行くのにせよ、行かないのにせよ、そのことに正義のひびきをつけ加える。行くことが正義であるようにひびかせる。行かないことが正義であるようにひびかせる。

 政治家がなす行ないは実践の正義だ。それとは別に制度の正義もある。制度の正義としてはだいじなのはいまの日本の憲法だ。憲法のだいじさを軽んじることはできそうにない。そこのだいじさを見逃さないようにしたいのがある。すべての人がもつ基本の人権(fundamental human rights)をまもって行く。被災した人たちがもつ人権ができるだけさいだいげんに守られるようにして行きたい。

 正義では、正当かそれとも不当かがある。このさい、野党の政治家がどうかといったことであるよりも、むしろ国の政治の権力にたいして正当性を問いかけて行く。それがだいじだ。当事者である被災した地域の行政の長は、はたしてきちんとした政治をなしているのか。きちんと被災した人たちを救っているのか。その正当性を問いかけることもいる。

 国の政治の権力や、被災した地域の行政の長が、不当なことをしている。そのうたがいは小さくない。きちんと憲法を守っているのでないと、権力をもつ政治家が不当なことをやる見こみが小さくない。

 日本の権力をもつ上の地位の政治家は、憲法を守っていないことが多い。だから、権力をもつ上の地位の政治家が不当なことをやっている見こみが小さくないのである。野党の政治家を批判している場合ではないのがある。きちんと政治家が憲法を守るようにして行かなければならない。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫憲法という希望』木村草太(そうた) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『法哲学入門』長尾龍一 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『その先の正義論 宇佐美教授の白熱教室』宇佐美誠 『構築主義とは何か』上野千鶴子