野党の政治家に何ができるか : 被災地に行っていったい何ができるか

 なんで、野党の政治家が被災地に行ったことが批判されるのだろうか。

 ひとつには、与党と野党では、野党は下だ。おとっている。日本ではそうした位置づけになっているのが関わっていそうだ。階層(class)で、野党は劣なのである。

 野党の政治家なんぞが被災地に行ったとして、そこでいったい何ができるのか。何もできやしない。大したことはできやしない。野党にきびしい見かたがなされることになる。

 少しおくれて与党の政治家が被災地に行っている。与党の政治家にはきびしい批判が投げかけられていないのである。これは与党の政治家が優の階層にあるためだろう。与党には甘いのが日本だ。与党とは、具体としては自由民主党のことをさす。

 たとえ被災地に行ったとしてもろくに大したことはできないのが野党の政治家なのだろうか。ろくなことはできないのだろうか。そうとは言い切れそうにない。

 問題を片づけて行く。その力をもつのが人だ。問題を見つけたり片づけたりすることができる力をもつ。問題の解決者としてあるていどより以上の力を持った人であればだ。

 意味をとらえて行く。それができるのが人である。どこかの場所に行って、それがどういう状況なのかをとらえる。文脈(context)をとらえる。いろいろな脈どうしをつなげて行く。文脈力である。話の流れが文脈である。機械(computer)は文脈を読みとるのが苦手だ。

 改めて見てみると、あんがい捨てたものではない。あながち捨てたものではないのが、人だ。日本では野党の政治家は劣の階層にあるけど、それを見なおす。一から作り直してみる。脱構築(deconstruction)だ。

 脱構築してみると、いろいろに意味を感じとる力をもつのが野党の政治家だ。被災地に行ったとすれば、その場所でいろいろな意味を感じとり、問題を見つけて行ける。問題を片づけて行ける。そこまで(手に負えないほどの)大きな問題ではなければそれがなりたちやすい。

 人は物ではない。物は、たんに人に使われるだけだ。人は物を使える。世界-内-存在なのが人である。世界と関わりながら生きることなのが世界-内-存在だ。そこが人と物とのちがいだ。(物はたんに人に使われるだけだから)物よりもより上位に人がいるとすることがなりたつ。

 大きな地震がおきて、人が死んでしまう。死を避けられないのが人である。死ぬことを知っているのが人である。死を避けられないことをつきつけられるのが、大きな災害がおきることだ。死ぬことを想起させてくれる。

 なんで人は死ぬのか。性があるからである。単細胞の生きものには性がない。人には男性と女性の性があり、多細胞である。年をとるとともに細胞の質がだんだん悪くなっていってやがて死ぬ。

 人には二つある。ただの人と、現存在だ。現存在は、けんめいに生きる人をさす。いっしょうけんめいに生きる。被災地の人たちは、死ぬことをつきつけられているので、現存在になっているものだろう。被災地に行った野党の政治家も、けんめいに生きながら被災した人たちを助けているのであれば現存在だろう。

 たとえ優の階層にあるのだとしても、特権にあぐらをかいているのであれば、与党の政治家は現存在ではない。けんめいに生きていないのである。与党の政治家が、自分たちの利益のためだけに動く。うら金などをせっせとためこむ。与党に甘い、甘えの構造を保ちつづける。そうしたふうであれば、けんめいに生きているとはいえず、現存在ではないことになる。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明構築主義とは何か』上野千鶴子編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『問題解決の心理学 人間の時代への発想』安西祐一郎 『問題解決力を鍛える 事例でわかる思考の手順とポイント』稲崎宏治 『文脈力こそが知性である』齋藤孝(たかし) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹