野党の政治家の被災した地への訪問をめぐる意見(異見)の対立

 国の政治家が、被災地に行く。行った政治家が、批判を受けている。

 野党の政治家が被災地に行ったことが批判されているのをどのように見なせるだろうか。

 行動と反応の組みがある。反応が、まっ二つに分かれている。

 行動そのものがどうなのか。それだけでは終わらない。反応を抜きにすることができない。反応が重みを持つ。

 ある行動が、よい反応を受けることもあれば、悪い反応を受けることもある。

 野党の政治家がとった行動がある。行動を良しとする人もいれば、批判する人もいるのである。正の反応もあれば、負の反応もある。

 被災地に行くと、じゃまになってしまう。交通のさまたげになるから、行かないほうが良い。国の政治家は、被災地に行くべきではないとされている。その中で、被災地に行った野党の政治家がいるのである。

 被災地に行った野党の政治家の行動のありようを見てみたい。そこに見てとれるのは、自律性(autonomy)だ。自己の駆動である。また、内発の動機づけ(motivation)も見てとれる。

 自分の意思によってのぞましい行動を行なうのが自律性だ。

 被災地に行くべきではないとされているのは他律性(heteronomy)だ。

 何らかの強制によって行動するのが他律性である。

 上から命じられていることをやるのは他律性に当たる。他者の駆動である。

 だれかに言われたからではなくて、自分からすすんで被災地に行ったのが野党の政治家である。自己の駆動によっているのである。自発性(spontaneous)による。

 何も関心をもっていないのにもかかわらず、被災地に行く。それは考えづらい。少なからぬ関心を被災地に持っていたことから、野党の政治家は被災地に行った。そうとらえることがなりたつ。

 それそのものに関心を持つ。それが内発の動機づけだ。人からほめられるとか、お金になるとか、票になるといったことで動くのは外発の動機づけである。

 内発の動機づけがけっこう高かったのが、被災地に行った野党の政治家だろう。被災地にすぐに行って、そこでやるべき仕事をそれなりにやった。困っている被災者から聞きとりをして、報告の文を書いた。

 認知と評価と指令の三つの点がある。被災地に行った野党の政治家は、その三つをやりに行った。被災地を認知しに行き、どういうありさまになっているのかを評価づけする。政治が何をなすべきなのかを指令する。こういうことをやるべきだといったことを指令する。

 じゅんすいに一〇割の内発の動機づけで動いたのではない。政治家は、外発の動機づけで動くところが少なからずある。被災地に行った野党の政治家は、(一つだけではなくて)多重の動機づけに支えられていたのがあるだろう。それそのものへの関心である、内発の動機づけがそれなりにあったととらえられる。

 それなりに創造性があることをやることができた。被災地に行った野党の政治家は、創造性が低いわけではなかったものだろう。もともと、災害の地の人たちや、貧しい人たちへの関心が高い。そうした現場にたびたび自分で足をはこぶ。経験の蓄積があるていどある。動機づけ(M)や技術(skill)や資源(resources)をそれなりに持つ。M や S や R がそれなりより以上にあれば、創造性が高いことをやれる。

 他者の駆動だと、たんに他の人に動かされるだけだ。そうではなくて、自己の駆動であれば、自分からすすんで動く。他の人に動かされてしぶしぶやるのではないから、何か意味や価値があることをやれることがのぞめる。

 出るくいは打たれる。そうなりがちなのが自己の駆動だ。被災地に行った野党の政治家は、自己の駆動によることをやったので、出るくいのようになった。それで打たれているところがある。うら返せば、出るくいになり、自己の駆動によることを行なったからこそ、意味や価値があることをやれた見こみがある。

 他者の駆動だと、他の人に動かされているだけだから、ぶなんではあるけど、そこまで積極に意味や価値があることはなしづらい。出るくいになることは避けられるけど、よこ並びのようになりかねない。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『学ぶ意欲の心理学』市川伸一 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『創造力をみがくヒント』伊藤進