政治家が炊き出しを手伝うことは、批判を受けるようなことなのか―行動と反応

 職を失った人への食事の炊き出しを手伝う。年末に、れいわ新選組の代表の山本太郎氏は毎年にわたってそれを行なっている。そのことへの批判の声が一部からおきている。政治家のやるべきことではないとの声が言われている。山本氏の年末の炊き出しの手伝いの行動をどのように見なすことができるだろうか。

 山本氏の行動は、それそのものはただの行動だと言えるのがあり、それにたいしてどういった反応がおきるのかが別にある。行動そのものがどうなのかといったことであるよりは、行動にたいする反応がおきるのがあり、行動と反応の組みによって見てみられる。反応は人それぞれによってさまざまなものがあるだろう。事実(is)としての行動があったことにたいして、こうするべきだとかこうするべきではないといった人それぞれのいろいろな価値づけ(ought)がなされる。

 正義では、実践の正義と制度の正義の二つがある中で、山本氏の行動は実践の正義に当たるものだろう。完全に純粋な正義とは言い切れないのがあり、不純であるところは多少はあるかもしれないが、不正な行動をしているのではない。困っている人たちに手をさし伸べるようなよい行動だと言える。

 構築主義(constructionism)から見てみられるとすると、客観のものであるよりは、主観の関心によって、山本氏は行動をとっている。その山本氏の行動が、客観としてまずいことだとは言えないのがあり、山本氏に主観の関心をもつ人の中に、山本氏に批判の声を投げかける人がいるのにとどまっている。客観であるよりは、主観にまつわることなのが、山本氏の行動とそれにたいする否定の反応だ。

 政治家は炊き出しの手伝いをやるべきではないとの声があることでは、むしろそれとは逆に、政治家はみんな山本氏を見習って、みんなが炊き出しの手伝いをやるべきだといったことも言えるだろう。やってもとくにばちは当たらない。

 本質主義からすれば、政治家であるのは本質だとなるが、山本氏の行動は、本質としてのものであるよりは、実存としてのものだと見なすことができる。政治家であるより前に、実存としての人としての行動をとった。いまは政治家をやっているのが山本氏だから、政治家としての要素が関わってくるのはあるだろうが、それだけではなくて、実存の人としての行動といったところもあるものだろう。

 政治家は、基本として自分がどれだけ多くの票を得られるかに力を注ぐ。政治家であるのなら、自分ができるだけたくさん票を得ようとする動機づけ(incentive)を強くもつ。票にならない行動は無駄だから、やらないようにする。利己のあり方だ。票になるかならないかで動いてしまいやすいのが政治家であり、政治家らしからぬ行動とは、たとえ自分の票にならず、票を失うことになるとしてもそれをやることだ。政治家としてのやるべき仕事も大事だが、そうではないような、政治家らしくないこともまた大事なことだと言える。できれば、そのうちの一方だけではなくて、両方をやればよいだろう。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『社会問題とは何か なぜ、どのように生じ、なくなるのか(疑問符)』ジョエル・ベスト 赤川学監訳