野党の共闘と、大きな言葉による正義―言葉の大きさの大中小のちがい

 野党の共闘をやって行く。そのさいにいることには一体どういったことがあるだろうか。共闘をやる中で、日本共産党といっしょに組むかどうかが問われているのがあるが、そこで気をつけるべきなのは、大きな言葉による正義だろう。

 大きな言葉による正義が語られがちなのがある。野党の共闘で、共産党が何かと排除されやすいのは、共産主義が大きな言葉として用いられていることによる。資本主義は正義で、共産主義は悪だといった、戦後の東西の冷戦のときの図式がいまだに当てはめられている。

 かつての冷戦のときの歴史をふり返ってみると、共産主義は絶対の正義だったのだとは言えそうにない。悪や不正義をまねいてしまったところがある。そのことを反省するさいに、共産主義が悪や不正義だったのだとするよりは、大きな言葉による正義がまずかったのだといえる。

 資本主義は完ぺきに非の打ちどころがないほどの絶対の正義や善だとは基礎づけたりしたて上げたりできづらい。それと同じように、共産主義もまた絶対の不正義や悪だとは基礎づけたりしたて上げたりできづらいのがある。げんに、純粋な資本主義はなりたたず、共産主義をとり入れた形の混合の経済のあり方になっている。社会主義がとり入れられている。純粋なものではなくて、不純な合金(amalgam)のあり方だ。

 大きな言葉による正義を語ってしまうと、純粋さの修辞(rhetoric)におちいってしまう。純粋さによってしまうわなにはまってしまうので、そのわなにはまらないように気をつけたい。

 資本主義がよいかそれとも共産主義がよいかとするのだと、大きな言葉による正義になってしまう。それと同じように、国の財政では、緊縮がよいかそれとも反緊縮の政策がよいかとか、消費税を上げるのがよいかそれとも引き下げたりなくしたりするのがよいかがあるが、これらは純粋さの修辞におちいりやすいものだ。純粋さのわなにはまりやすい。

 できるだけ大きな言葉による正義を語るのをおさえるようにして、純粋さの修辞によるのではないようにしたい。純粋さのわなにはまるのを防ぐようにして、大きな言葉による正義を語ることだけをもってしてよしとはしないようにして行く。それだけをもってしてよしとしてしまうと、わかったつもりになることがある。

 何かと大きな言葉による正義が語られがちなのが政治にはある。政治には大きくはお金と語りの二つの要素があるが、このうちで語りに当たるのが、大きな言葉による正義だ。政治の言説において、大きな言葉による正義が言われていたら、それをそのまま丸ごとうのみにするのではなくて、表面にとどまらないようにして、深くまで掘り下げて行きたい。純粋さではなくて、不純さを見るようにして、混合や合金になっていて、雑種(hybrid)になっているところを見るようにして行きたいものである。

 参照文献 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『政治家を疑え』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『自分で考え、自分で書くためのゆかいな文章教室』今野真二(こんのしんじ)