憲法の改正と、レクサスとオリーブの木―新しさと古さ

 トヨタ自動車の高級車のレクサスと、オリーブの木がある。レクサスは新しいものをさし、オリーブの木は古いものをさす。この二つの相互作用によっているのがいまの現実だ。記者のトーマス・フリードマン氏はそう言う。このことを、日本のいまの憲法に当てはめてみたらどういったことが言えるだろうか。

 日本のいまの憲法は、新しいものであるレクサスに当たる。古いものであるオリーブの木だとは言えそうにない。

 時系列で見てみると、かつてのまちがった日本の国のあり方がオリーブの木に当たる。そのまちがったあり方であるオリーブの木をくみ入れて、それを反省して作られた新しいものなのがいまの憲法だ。

 憲法の改正の文脈では、いまの憲法が古いオリーブの木であり、憲法の改正をして行くことが新しいレクサスに当てはめられる。この当てはめ方は、十分にうなずけるものではない。

 古いオリーブの木ではなくて、新しいレクサスに当たるのが憲法だと言えるのがあり、そう見なすとしっくりと来る。内容においては、憲法は進みすぎているところがあり、理想論の色あいが強いのがある。現実論であるよりは、理想論によっているところが、憲法が新しいレクサスに当たることの理由である。憲法に現実が追いついていなくて、へだたりがある。

 憲法から離れて、現実を見てみると、現実は新しいレクサスと古いオリーブの木が混ざり合った形としてある。レクサスのところだけを見るだけだと不十分だし、オリーブの木のところだけを見るのでも不十分だろう。進んでいるところもあれば、退行しているところもある。

 いっけんすると、憲法の改正をすることは、新しいレクサスのようではあるが、じっさいにはそれとは逆に、オリーブの木に当たることになる。与党である自由民主党は、古いオリーブの木である退行になっているのがあり、復古を飛びこして反動になっているのがある。

 いまの自民党は、追憶によっているところがあり、古いオリーブの木にしがみついているのがある。ちゃんとかつての過去の歴史をふり返って反省して行くのではなくて、歴史を忘却しようとしている。前望(prospective)しているようでいて、それができていなくて、悪い形の後望(retrospective)になっている。戦後に日本が右肩上がりだったころを追憶していて、その残像にいつまでもすがっている。古い発想から脱することができていない。いまだに、アメリカに従属するあり方から脱せられていない。

 自民党そのものが、党として古いオリーブの木のようなものであり、戦後の東西の冷戦のときにはまだ党としての大義名分があったが、いまは東西の冷戦が終わってひさしく、党としての大義名分がなくなっている。党としてあることが自明ではなくなっている。

 かつてに比べて党としての内実がどんどん劣化していっているのがいまの自民党だ。かつてがもともとそう大したものではなかったのだから、かつてより以上にといったほうが正確だろう。これは選挙の仕組みの小選挙区制もわざわいしている。いまにおいて、かならずしも自民党はなくてもよいのだ(もしかしたら無いほうがよいかもしれない)。ことわざで言うおぼれる者はわらにもすがるといったようなことで、憲法の改正にやっきになっている。

 古いオリーブの木においては、古いものだからだめだとしてしまうのではなくて、かつての歴史を忘却しないようにして、歴史を想起しつづけて行く。かつての歴史の負のまちがいをくみ入れて作られたのが憲法なのだから、その古さのところをいまにおいてきちんと生かして行く。

 現実は新しさと古さが混ざり合った形になっているが、古いところの危なさがおきている。現実の中の、古いところのまちがいを見るようにして、古いまちがったところがぶり返しているのを批判して行く。かつてにおかしたまちがいを、いまにおいてもふたたびくり返さないようにして行く。

 新しいレクサスによりすぎているところがあるのが憲法であり、そこに欠点があるとも言えるが、それをうら返して言えば、その新しさのところを生かして行くことができる。憲法が持っている新しさの点から、現実を批判して行ける。現実においては、古いまちがったものがぶり返してきていて、力を持ってしまっているのがあり、そこが十分に批判されなければならない。

 新しく憲法を改正するのだとしても、そこには新しさがあるとは言えず、現実の古いまちがったところに引っぱられてしまい、引きずり戻されてしまう。その危なさがつきまとう。新しさの点で言うと、これ以上はないと言ってよいくらいに内容が新しい(新しすぎる)のが憲法だから、それを超えたより新しいあり方にするのはできづらい。古いものに戻ってしまうおそれが小さくない。

 古いオリーブの木がいまだに現実にはあり、古いまちがったあり方がくすぶりつづけている。どんどん新しいレクサスの方向性に進みつづけているだけではなくて、それとは逆方向の古い負の遺産のようなものが残りつづけていて、ふたたび台頭してきている。憲法の改正の動きでは、古くてまちがったものが圧力を高めつづけていて、それが思いきり大きくぶり返してしまうことには十分に気をつけて行くことがいる。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『政治の終焉』御厨貴(みくりやたかし) 松原隆一郎(まつばらりゅういちろう)