政治家が言うことの多層性―建て前と本音による多層さがある

 政治家が国民の命を選別することは、まったくないことだと言えるのだろうか。それがまったくありえないことだと言い切ることはできるのだろうか。

 建て前はともかくとして、政治家の本音としては、国民の命を選別することはやむをえないとまったく少しも思っていないと断言することはできないかもしれない。

 国民の命を選別しないことは、すべての国民の命を平等に守って行くことだ。政治家がそれを最後まで責任をもって果たして行くことは、まちがいなくのぞめることだとは言えそうにない。

 政治家がどういう思わくをもっているのかを、IMV 分析で見てみるようにしたい。意図(Intention)と説明(Message)と見解(View)の三つだ。このうちで、どのような思わくや本音や意図を政治家がもっているのかを見てみられるとすると、ほんとうのところは、国民のことなどどうでもよいのだと思っているのではないだろうか。それが明らかになってあらわになったのが、戦争に負けたすぐあとだ。

 戦争に負けたすぐあとのころは、一時的に無政府状態のようになった。国が一時的に無政府状態のようになり、そのときの政治家は国民のことを放ったらかしにした。国民のことなどどうでもよいのだとした。国民は自分たちで自分たちの食べるものなどを調達しなければならなかったのである。政府が何もしないから、食料などを調達するのにはとても労力がかかった。それがしばらくのあいだつづいた。思想家の吉本隆明氏はそう言っていた。

 戦争に負けたすぐあとのときに、政治家が国民のことを放ったらかしにしたのは、けっして例外的なことだとは言えないのではないだろうか。政治家がもっている意図としては、国や国民のことなどはどうでもよくて、自分たちがどれくらい票を得られるかがいちばん肝心なことになっている。すごく大切なことがあったとしても、それが票を得るためにマイナスになることなのであれば、口にすることは基本としてない。それを口にすることは、票を得るためにはマイナスにはたらいてしまうからだ。

 票を得ることを第一のことにすることが多いのが政治家だから、その理性は退廃している。健全でまっとうな理性をもっているとは言いがたく、票さえ得られればよいということで、数字の量によるだけになり、質がとり落とされる。数字の量によるだけなのは、理性の道具化や道具の理性だ。とくにそれがひどいのがいまの首相による政権のあり方だろう。

 はたして政治家が国民の命を選別しては駄目だという健全な意図をもっているのかというと、それははなはだしく心もとない。それをもっていることをのぞみづらい。いまの日本の権力をになう政治家を見ていると、そう見なさざるをえない。そう見なさざるをえないこととして、国民に向けてしかるべき倫理観をしめして説明の責任を果たすことが十分に行なわれていないのがある。IMV のうちの国民への説明(Message)が足りていなくて不十分だ。

 政治家がどういうことを口で言うのだとしても、そのこととは別の意図をもっていることはめずらしくないことだから、政治家が口で言ったことがそのまま政治家が意図としてもっていることだとは言えそうにない。ほんとうは国や国民のことなどどうでもよいと思っているのにもかかわらず、国や国民のことをあたかもおもんばかっているかのようなことを言うことは十分に可能だ。そういうふりをすることは十分にできる。

 政治家が、国民の命を選別するべきだという意図をもっていて、それをそのまま口にするのは、意図と説明がずれていないが、それがよいことだということはできそうにない。このさいには、意図がそのまま説明として言われることになるが、そうではなくて、意図していることとは別のことが説明として言われることもある。意図とはちがうことが説明として言われることはおうおうにしてあることだから、政治の権力者が言うことには十分に気をつけておいてそれをしすぎることにはならないだろう。あまり政治家のことを疑いすぎて虚無主義になってしまってはよくないかもしれないが。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編