理想論と現実論のあいだ─検察の捜査の限界

 政治のうら金を、捜査して行く。

 与党である自由民主党の政治家のうら金を検察が捜査した。捜査では、いったい何が求められていたのだろうか。検察に国民は何を求めていたのだろうか。

 核心と周辺の二つにふ分けしてみたい。

 国民が検察に求めていたのは、核心だ。周辺ではない。

 理想論と現実論の二つにふ分けしてみると、国民が求めていたものである核心を検察がついていれば、理想論が現実化した。

 核心のところを検察がつくことができていれば、理想論と現実論が合った。理想論と現実論とのあいだにみぞがおきなかったのである。

 現実論を見てみると、検察は核心をつくことができなかった。周辺しかつくことができなかったのである。理想論と現実論が合わずに、それらのあいだにみぞが開く。

 核心をつくことができずに終わった。国民が求めていたものである核心のところをつくことができなくて、周辺しかつけなかったのが検察だろう。期待がうら切られたのである。

 主要に当たるのが核心だ。副次なのが周辺である。副次のものがあって、その奥に主要のものがある。奥にある主要のものを見て行く。主要をとらえることがいる。中国の政治家の毛沢東(もうたくとう)氏はそう言っている。

 うら金のことでは、副次しかとらえられていない。検察は副次のところしかとらえていなくて、その奥にある主要なものをとらえそこなっている。主要なものをとり逃してしまっているのである。

 できれば理想論と現実論が合えばよかった。それらのあいだにみぞが開かなければよかった。みぞが開かなければ問題が片づいたことを示す。みぞが開いているのは問題がおきつづけていることをあらわす。

 現実論をないがしろにすることはできづらい。理想ばかりを言っていてもしかたがないのはある。理想はいるけど、現実論とのかね合いがあるから、現実論によることもいる。

 甘く見てみれば、少しは主要のものを見て行きやすくなった。検察が副次のものをつくことによって、主要のものが少し浮きぼりになっている。自民党の政治家のうら金のことが明るみに出たのがあって、批判をしやすくなったのはたしかだ。

 核心のところや主要のところは、本質に当たる。国民が検察に求めていたのは、本質だ。本質として、うら金のことを捜査して行くことが求められていたけど、本質まではいたれなかった。

 中心にあるのが本質だとして、中心の周りのところでとどまったのが検察の捜査だろう。体を温めることでいえば、体が芯からは温まらなかった。手とか足とかの末端のところしか温まっていない。

 本質をぎんみして行く。それが批判である。批判が十分にできていないのが検察だ。じゅうぶんに批判することが求められていたけど、国民の期待にうまくこたえられなかったのが検察である。落ち度がある。

 検察に落ち度があるのを組み入れれば、うら金のことについてまだまだどんどん批判をして行くことがあったらよい。ばしばし批判をして行く。本質のところにまでいたるようにして行きたいものである。本質の周りである、周辺をうろうろするだけで終わるのだとざんねんだ。

 ほしいものは本質なのに、別のもの(周辺)が与えられるだけだと、不満足だ。ほしいものがいつも必ず手に入るとは言い切れないけど、うら金のことについては、自民党の政治家の悪さがどんどんあばかれてきびしく批判されればさいわいだ。

 お店なんかでお客さんが注文しているものなのが本質だとすると、まだその注文しているものが出てきていない。検察に注文したのがあったけど、注文したのとはちがうものが出てきた。検察についてをきびしく見てみればそう見なすことがなりたつ。

 参照文献 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『追及力 権力の暴走を食い止める』森ゆうこ 望月衣塑子(いそこ) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子