日本のお笑いと、差別―(面白ければ)お笑いの中での差別は許容されるべきか

 お笑いで、差別をなすのは、許容されることなのだろうか。

 漫才の大会の予選が行なわれて、その中で、差別がなされた。中国人への差別がなされたのがあり、日本人の八割は中国人がきらいだとすることが、漫才の中で言われた。

 たとえ差別が言われたとしても、面白ければそれで良い。笑えれば良い。差別を否定してしまうと、若手のお笑いの芸人をつぶすことになりかねない。若手のお笑いの芸人が活躍できなくなってしまう。そうした声もある。

 あれを言ってはだめだ、これを言ってはだめだ。あれをやってはだめだ、これをやってはだめだ。言うことややることを色々に禁じてしまうと、お笑いにおける表現の幅がせばまってしまう。面白いことをやりづらい。面白いことを生むために、表現の幅ができるだけ広い方が良いとする見方もある。これは主に送り手(お笑いの生産者)の立ち場からのものだ。

 社会の中でなされるのが、お笑いだ。社会の活動に当たるものなのだから、社会の活動としてのふさわしいあり方がいる。社会の関係(public relations)があることがのぞましい。

 どういう倫理観を持っているのかがある。社会の関係ではそれを示すことがいる。お笑いの芸人にそれがいるのがあり、また漫才の大会の運営の主体にもそれがいる。テレビ局にもそれがいる。テレビ番組には、一定の倫理観がないとならないものだろう。

 何がなんでもお笑いがいちばん大事だ。お笑いをもっとも大事なことだとしてしまうと、ゆとりが欠けてしまう。ゆとりによるものなのがお笑いの文化だろう。面白いかどうかとはちょっと話がちがってしまうけど、お笑いの意味あいは、ゆとりを持てることに見いだせる。視点をいくつももつ。

 日本の視点だけだと、日本が中心化されてしまう。日本だけではなくて、ほかの国の視点もいる。日本の国の中には色々な考えをもつ人がいるのだから、日本を良しとする視点だけでは十分ではない。日本のあり方を批判する視点も欠かせない。中国や韓国のことを良しとする視点もあったら良い。

 省略によるのがお笑いの文化だから、差別がおきがちだ。気を許すと差別になりやすいのがある。省略したほうがお笑いになりやすいのがあり、そこに危なさがつきまとう。日本人はすぐれているとか、中国人は悪いといったような、まちがった省略化がされるのは良いことではない。一面の省略化の危なさには気をつけて気をつけすぎることはないのがある。

 中には価値をもつとは言えないお笑いもあり、すべてが良いとは見なせそうにない。じゅうぶんに基本の人権(fundamental human rights)を守った中でお笑いが行なわれるとはいえず、人権が侵害(しんがい)されることが少なくない。お笑いの仕事では、お笑いの芸人が(大)けがをすることがあり、体をはることが避けられないことがある。人権が軽んじられていることが見てとれる。

 冷たい笑いがある。日本では冷たい笑いがはびこっている。ナチス・ドイツなんかでは、冷たい笑いがはびこったために、独裁主義におちいった。

 漫才の大会の予選でなされたのは、冷たい笑いだろう。日本の国の全体に冷たい笑いがまん延してしまっているのが映し出されたかっこうだろう。

 権力に寄生する冷笑(cynicism)は、独裁主義をうながす。もしも日本のお笑いが、冷笑におちいっているのだとすれば、それを批判して行く。ひと口にお笑いといっても、権力に寄生する冷笑は悪いものだから、そうした負の笑いであるのなら、それを批判することのほうが価値が高い。

 たとえお笑いだからといって、すべてのものに価値があるとは限らない。お笑いの範ちゅう(集合)の中には、負の価値のものを含む。差別がなされることがあるから、負の価値のものについては批判をするのがのぞましい。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『ユーモア革命』阿刀田高(あとうだたかし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『本当にわかる現代思想』岡本裕一朗 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬(たかし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや)