中東の紛争と、基礎づけのまずさ―正や負に基礎づけることのできなさ

 中東で、紛争がおきている。

 イスラエルは、パレスチナガザ地区の北のところに、攻撃をしかけている。病院を攻撃しているのである。敵が、病院をこんきょの地にしているという。

 善そのものなのが、イスラエルなのだろうか。正しさそのものなのがイスラエルだと見なせるのだろうか。敵である、パレスチナイスラム原理主義の集団は、悪そのものなのだろうか。敵の集団の長は、悪ものでしかないのだろうか。

 基礎づけをすることができるかどうかがある。基礎づけをすることが成り立ちづらい。反基礎づけ主義だと、そうなるのがある。

 敵は悪そのものだ。イスラエルはそうしている。敵を基礎づけているのがイスラエルだ。敵は悪いものだと基礎づけたりしたて上げたりしているのがイスラエルなのである。

 悪そのものだとまでは基礎づけたりしたて上げたりできづらい。パレスチナイスラム原理主義の集団を、そうとらえることが成り立つ。

 敵について、基礎づけ主義はなりたちづらい。イスラエルについてもまた、善そのものだとは基礎づけたりしたて上げたりできづらい。

 あくまでも、それがあるとできるのにとどまる。何々である(is)とできるのにとどまるのがあり、そこから自動で何々であるべき(ought)を導いてしまうと、自然主義の誤びゅうにおちいる。

 差別されてきたのがユダヤ人だ。ユダヤ人であることから、自動で排除されるべきだとされたのである。ユダヤ人への差別は、自然主義の誤びゅうであり、なされるべきことではない。

 何々であるの事実と、何々であるべきの価値を、ふ分けしてみたい。事実と価値の二つをふ分けしてみると、イスラエルユダヤ人は、何々であるの事実であるのにとどまる。そこから自動で価値を導くことはできそうにない。

 パレスチナは、何々であるの事実に当たる。パレスチナイスラム原理主義の集団は、イスラエルが敵だとしているものだけど、その集団があるのは事実にとどまる。そこから自動で価値を導くことはできそうにない。

 たしかに、イスラエルにとっての敵に当たるものは、できれば無い方がのぞましいのはあるだろう。有るよりも無い方が、イスラエルにとってはのぞましいだろうけど、それだと、事実から自動で価値を導く自然主義の誤びゅうにおちいりかねない。ちょうど、ユダヤ人であることから自動でユダヤ人が排除されるべきだとすることを導いてしまうのに等しくなる。

 価値は人それぞれなのがある。事実から、自動で負の価値を導いてしまうと、それが有ることをこばんでしまう。有ることを承認しなくなる。有ることを否認することになる。無い方がのぞましいからだ。

 どういう段どりがいるのかといえば、ひとつには、自然主義の誤びゅうにおちいるのを防ぐ。事実から自動で価値をみちびかない。まず事実を見てみる。事実としては、イスラエルにとっての敵となる、パレスチナイスラム原理主義の集団が有るのは否定することができそうにない。

 敵となるようなやっかいな集団が事実として有るのはたしかだから、そこでひとまず立ち止まるようにする。そこでいったん立ち止まるのは不快だ。快くない。快くなくて不快ではあるけど、できるだけ不快さのところで立ち止まり、その不快さを思考して行く。

 無いほうがイスラエルにとってはのぞましいのだとしても、そうした(イスラエルにとっての)負の集団があるのであれば、それが有ることを承認して行く。有ることを否認しないようにする。有ることを承認するのについで、その負の集団とやり取りをし合う。合意を目ざす対話をして行く。交通(communication)の行動だ。

 交通の行動をやらないで、負の集団をまっ殺しようとしているのがイスラエルだろう。イスラエルにとって負の集団に当たるものをまっ殺しようとするのは心情としてはわからないではないが、それだと交通の行動をやっていないことを示す。

 何をイスラエルがやるべきなのかといえば、敵に当たるものをまっ殺することではなくて、交通の行動をやることだ。ユダヤ人にたいしても、そのほかの人たちにたいしても、自然主義の誤びゅうにおちいらないようにしなくてはならない。自然主義の誤びゅうにおちいっているところがあるのがイスラエルであり、そこを改めることがいる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『構築主義とは何か』上野千鶴子