処理水と、賛と否―賛(さん)はいがいと難しい(否はいがいと楽さがある)

 原発の処理水を海洋に放出する。それをよしとするのと、反対するのとでは、どちらのほうがより難しいだろうか。

 処理水(汚染水)の海洋への放出をよしとするほうが、よりむずかしい。

 原子力発電所から出た処理水を海洋に放出することについて、賛成と反対がある。その中では、どちらかといえば楽なのは、いいかげんに賛成するのと、反対するのだ。

 必ずしもむずかしくはなくて、楽といえば楽なのは、いいかげんに賛成するのと、反対するのである。それらは、そこまでむずかしさは無い。

 処理水の海洋への放出に、しっかりと賛成するのは、むずかしさがある。きちんと賛成するのは、必ずしも楽ではない。

 具体のものなのが、原発の処理水の海洋への放出だ。それを抽象論で見てみると、何かのことについて、賛成と反対がおきている中で、そのことに賛成をするのは、それをしっかりやろうとすれば、それなりの労力がいる。

 何かに反対をするだけなのであれば、そこまでむずかしさはない。完ぺきなことが行なわれているのではないのであれば、どこかに非を見つけられる。およめさんがやることについて、しゅうとめさんが、あらを探す。例としてそれをあげられる。

 およめさんが家事をやる。およめさんがやることには、どこかにあらがあるから、しゅうとめはそのあらを探して、そこをとがめればよい。しゅうとめがおよめさんをとがめるのは、そこまでむずかしくはない。

 ほめるのと、けなすのがある。その二つがある中で、けなすようにする。悪く言う。何かを悪く言っとけば、だいたい当たる。例えば、日本の国や、電力会社の東京電力があるけど、それらについて悪く言っておけばまず当たるのだ。

 日本や東電ではないそのほかのものでも、だいたいのものは、悪く言っておけば当たる。外れることはあまりない。とんでもない見当(けんとう)ちがいにはなりづらいのである。迷ったとしたら、そのことを悪く言っておけばよいのである。

 何ごとも、一〇割の完ぺきさでものごとを行なうのはできづらいのがある。完ぺき主義の一〇割主義の点からすると、九割や八割や七割のでき具合であったとしても、だめだしがなりたつ。一〇割でなければならないからだ。

 一〇割主義ではなくて、六割主義の点からすると、四割ができていなくてもまあ良しとできる。六割くらいできていればまあ良しとできるのである。

 たいていのものごとは、一〇割主義で見たばあいには、抜かりや落ち度があるものだ。その抜かりや落ち度を批判するのは、それらを見つけられさえすれば、そこまで難しいことだとは言えそうにない。

 処理水のことであれば、そのことに(海洋への放出に)賛成をするさいには、それをしっかりとやろうとするのであれば、批判を組み入れることがなければならない。処理水を海洋に放出することに批判の声がおきていて、それに反対する声が言われているのを、組み入れることがいる。

 たんにそのことを良しとするだけでは十分ではなくて、それにたいして批判や反対の声が言われていることを組み入れて行く。そのうえで、賛成をする。批判や反対の声にも一理あり、それも一つの理屈だけど、それとはちがう、賛成の立ち場に立つ。そういった形にする。

 内容からいったら、処理水の海洋への放出をよしとするのがまちがっていて、それを批判や反対することが正しいことであるかもしれない。内容からしたらその見こみはあるけど、さしあたって内容の点は置いておけるとすると、いっけんすると賛成するのは楽なようでいて、そうとは言い切れないところがある。しっかりと賛成をするのであれば、反対説を排除しないで組み入れないとならないから、批判や反対をするよりもより労力がかかる。

 参照文献 『新聞の読みかた』岸本重陳(しげのぶ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)