日本の原発の処理水は、安全なのか―海に流しても大丈夫なのか

 原発の処理水は安全なのか、危険なのか。

 日本がかってに処理水を海に流すのではなくて、いちおう第三者の監視のもとで流す形にはなっている。国際原子力機関(IAEA)が監視する中で海に流される。

 どこの国でも、原子力発電所で使われた処理水を海に流している。それがあるのだから、日本だけがやることではない。そう言われているのがあるけど、原発が事故をおこしたのがあって、そこのちがいがある。

 事例として見てみると、事故をおこしていない原発で使われた水を海に流しているのはほかの国でもいっぱいある。それとはちがって、事故をおこした原発で出た処理水を海に流すのは、事例としては日本だけのようである。

 科学の要素還元主義で見てみると、処理水に含まれる成分がどうなのかがある。日本の処理水は、そこに含まれるすべての成分が明らかにされていないという。明らかにされていない成分があって、そこが不明な点になっている。

 微分によるのが要素還元主義であり、処理水であれば、その中に含まれる成分をぜんぶ調べつくす。含まれている成分をぜんぶ明らかにして、広く公表する。そういうふうにすれば、処理水がどういったものなのかを明らかにできる。

 手つづきとしては、微分化してから積分化するのが要素還元主義だ。分析してから総合する。日本の処理水は、てっていして分析されているとはいえないものだから、総合したさいに、あまりが残っているものだろう。分析されていないところ(または分析されていても公表されていないところ)が残っていて、じっさいの処理水とはずれた総合になっているおそれがありそうだ。

 音楽になぞらえると、生の演奏とはちがい、コンパクト・ディスクである CD(またはデジタルの媒体)に録音した演奏を再生するのに当たるのが要素還元主義だ。生の演奏は連続量(analog)だが、CD を再生するのは離散量(digital)だ。離散量は、微分化してから積分化するのや、分析してから総合しているものであり、連続量とはずれているのである。

 きちんと分析されていて、それにもとづいて総合されていて、処理水が海に流される。そうであれば、危険性はなくて、安全だといったこともありえなくはない。要素還元主義からするとそう見なせるのがあるけど、要素還元主義の限界がある。音楽でいえば、CD の再生であって、生の演奏とはちがう。それと共に、分析がずさんだったり、分析の結果の一部が隠ぺいされていたりすれば、きちんとした総合になっていないおそれがある。

 かならずしも完ぺきに信頼を置くことができないのが要素還元主義だ。処理水であれば、その中に含まれるあらゆる成分を分析しつくしたとしても、だからといって処理水がどういったものなのかを完ぺきにわかったことにはなりづらい。処理水は、その中に含まれる成分だけに還元できないかもしれない。

 そうかといって、要素還元主義を完全に全否定してしまうと、非科学におちいってしまいかねない。日本の処理水を海に流すことにまつわる不安や心配は、要素還元主義の限界から来ているのがあるかもしれない。

 要素還元主義の限界をふまえてみると、処理水はぜったいに安全だと完ぺきに言い切ることはできづらく、おそらく安全だろうとか、おおむね大丈夫だろうといったことが言えるのにとどまりそうだ。演繹(えんえき)で言い切れるのではなくて、帰納でこうだろうとかああだろうと言えるのにとどまる。

 一般法則から個別の答えを導く思考法が演繹であり、個別の事例から一般法則をみちびく思考法が帰納である。文末が、何々だ、とか、何々である、は演繹だが、何々だろうは帰納だ。たいていのものごとは演繹では言い切れなくて、帰納で言えるのにとどまるのがあって、処理水もまたそうしたものだろう。

 参照文献 『微分積分を知らずに経営を語るな』内山力(つとむ) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『大学受験に強くなる教養講座』横山雅彦 『十三歳からの論理ノート』小野田博一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編