五輪と場所―どういう場所で五輪を行おうとしているのか

 五輪を東京都で夏にひらく。いっけんするとそれはあたり前のことのようではあるが、五輪とそれをひらく場所とを改めて見てみるとどういったことが言えるだろうか。

 五輪とそれをひらく場所との二つをとり上げてみると、ほんらいであれば場所が重んじられるべきである。場所を重んじるようにして、場所に合わせた形で五輪をひらくべきだ。

 場所よりも五輪を重んじるのであればこういったあり方がなりたつ。五輪がいちばん大事なのであって、それをひらく場所のことなどはどうでもよいことだとする。場所はどうなってもよい。五輪さえひらければ場所はどうなってもよい。そのようにして、五輪を重んじて場所を軽んじるのはふさわしいことだとは言えそうにない。人それぞれによって価値の持ち方はいろいろではあるが、五輪よりも場所が大事である。

 理想論としては場所に合わせて五輪をひらくようにするべきだが、現実論としては逆になっている。五輪に場所を合わせているのである。五輪のために場所を合わせているので、いろいろな無理が生じている。

 演繹と帰納でいえるとすると、五輪は演繹になっていて、上からの演繹が押しつけられる形になっている。上からの演繹としてあるのが五輪であり、それが場所に当てはめられることになっている。上からの演繹である五輪に合うように場所が使われる。

 下からの帰納なのが場所である。下の帰納である場所がどのようになっているのかがあり、それに合わせるようにして五輪をやる(またはやらない)のかを決めるべきだ。

 場所があっての五輪なのだから、場所が重んじられるべきであり、場所にふさわしいようにして五輪をひらく。その場所がいまどのようになっているのかがあって、そのぐあいに応じて五輪をどのように行なうのか(または行なわないのか)を決めて行く。

 服と体でいうと、体に服を合わせるべきであり、服にむりやり体を合わせようとしても無理がおきることになる。体に合うようにして服が整えられるべきであり、体に合わないのであれば服を着ないこともあることがいる。

 この服を着ろといったことになっているのが五輪だろう。すでにつくられている服があって、その服を体に着させる。服にたいして体が合っていないところがあるが、そのずれが無視されてしまう。ずれがないことにされてしまう。服と体がまったく合っていないことになっているのだとしても、服を着ないことが行なわれず、服を着ることありきになっている。かなりのずれがあるのにも関わらず、あたかも服と体がぴったりと合っているかのようにされている。

 まず服があって、それを体に着させるのは上からの演繹だろう。体に合わないのだとしても服を着させる。服が先行するのではなくて体がまずありきであるほうがやさしいあり方だ。体を先行させるのは下からの帰納だ。下からの帰納によるのであれば、五輪を行なうのを中止にすることも十分にありだろう。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『実践トレーニング! 論理思考力を鍛える本』小野田博一