年収が低い人は、社会のお荷物なのか―年収が低い人は、社会に文句を言ってはいけないのか

 たくさんお金をかせぐ。それができない人は、社会のおにもつだ。テレビ番組ではそう言われていた。

 稼得(かとく)の能力がひくくて、たくさんお金をかせげない人は、(社会に)もんくを言ってはいけないのだという。社会から恩恵(service)を受けているだけだからだ。

 具体としては年収で八九〇万円くらいはかせいでいないと、社会のおにもつだとされる。それくらいかせげないと、その人は社会の中でやっかい者に当たるのだろうか。社会のじゃま者なのだろうか。

 お金をたくさんかせいでいる人は、税金をたくさん払っているから、人として価値がある。そうされるのがあるけど、その価値を逆にしてとらえてみたい。お金をたくさんかせいでいない人のほうが、価値があるのだともできる。

 生きて行くのに、お金がたくさんいる地域がある。都会などだ。いなかだったら、お金をあまりかけずに生きて行ける。

 都会といなかを比べてみると、文明への依存の度合いでは、いなかのほうがよりまっとうだ。都会は、文明の度合いが高くて、お金をたくさん持っていないと楽しめない場所なのである。その点では、良い場所とはいえないのが都会だ。

 その人が、どういう地域で生きているのかがちがう。地域によっては、うんとお金がかかるところもあれば、それほどお金がかからずに生きて行けるところもある。そういう差があったけど、かつてよりも差がなくなっている。

 国の全体が一元化されていっている。お金がすべてのあり方で一元化されていっている。国のどこもかしこも、お金の切れ目が縁の切れ目(お金がなければ生きて行けない)のあり方になってしまう。お金の一神教だ。

 お金の一神教のあり方だと、勝ち組と負け組に分かれて、負け組はすくわれない。捨てる神さまはいても、すくいの神さま(ひろってくれる神さま)は見つかりづらい。捨てられたら終わりだ。ためを持っていないと、かたむきが急だから、いちばん下の底辺まですべって落っこちてしまう。

 お金をどれくらいかせぐのかは、その人がどれくらいお金を必要としているのかによるのがある。人によっては、うんとお金がいる人もいれば、そこまでお金がいらない人もいる。少ししかお金がいらない人もいるし、そこそこ(ほどほどの)お金があればそれでよい人もいる。

 人それぞれで、いるお金の量がちがうから、うんとお金がいる人はうんとお金をかせがないとならない。そこまでお金がいらない人であれば、うんとお金をかせいでも意味がない。お腹がすでにいっぱいなのに、目の前にたくさんの食べものを出されるようなものだろう。

 都会は文明の度合いがとても高いけど、その度合いが低いいなかや自然の中で生きている人の中には、ほとんどお金なしで生きて行ける技術を持つ人もいる。そういう生存(survival)の技術をもつ人もいて、それはお金をたくさんかせぐ能力とはちがったものだ。

 もしも文明がほろびるようなことがおきたら、お金をたくさんかせぐ能力は意味がなくなってしまいそうだ。それよりも、文明によらずにいなかや自然の中で生存できる技術を持っている人のほうが、生きて行けやすい。

 生活して行くのにどれくらいお金がかかるのかがあって、お金がかからなければかからないほど、その人の生き方はまっとうだ。お金がかかればかかるほど、まっとうではない見こみがある。お金がかかるのは、文明にふかく依存していることをしめす。

 お金をたくさんかせぐことができる稼得の能力は、あくまでも人がもつ価値の一つにすぎず、それだけをもってしてその人の人としての価値が決まるのだとは言い切れそうにない。稼得の能力だけが高くて、頭はすごいばかな人もいるだろう。稼得の能力は低くても、頭がよいとか性格が良い人もいる。

 人ではなくて商品なんかでも、売れる商品であれば中身があるとはいえそうにない。テレビ番組なんかだと、視聴率が高ければ、中身がある番組なのかといえば、その逆のことが多い。中身がある番組は、視聴率が低いことがしばしばある。低俗化してしまう。視聴率が高くて、たくさんもうかる番組であっても、中身がすかすかなことが多い。害があることもしばしばある。

 参照文献 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『きみがモテれば、社会は変わる 宮台教授の〈内発性〉白熱教室』宮台真司(みやだいしんじ) 『これだけは知っておきたい 働き方の教科書』安藤至大(むねとも) 『「価値組」社会』森永卓郎 『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠