良品か不良品かと、性悪説(人間の不良性)

 殺人を犯した人は不良品だ。不良品どうしでやり合ってくれればよい。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 たしかに、殺人を犯すのはとても悪いことであるのはまちがいがない。そこで、それを犯した人を不良品として見るのではなくて、その行為を不良行為と見なす。罪を憎んで人を憎まず、というふうにすることも、場合によってはできなくはないのではないだろうか。

 不良行為が行なわれてしまうのは、社会状態がくずれて、自然状態(戦争状態)となってしまうからだ。社会状態であれば、生存が重んじられる。自然状態であれば、生存が軽んじられてしまう。

 不良行為がおきてしまう問題の所在としては、制度の正義や実践の正義がくずれてしまっているのがある。制度の正義や実践の正義を立て直すようにするのはどうだろうか。そのためには、社会の中でいくつも不正義が行なわれてしまっているのをさし示すことが欠かせない。

 制度の正義ということでは、憲法では個人の尊重がとられているが、これは現実において十分に目を向けられているとは言いがたい。個人の尊重が十分にとられているのであれば、人々がもっと生きて行きやすくなっているはずである。

 良品か不良品かという優劣ではなくて、ちがっていてよいということになるのがのぞましい。ちがっているのと共に、同じだということだ。同じところがあるものだから(表面的には)比べられるのである。

 みんな同じだという点では、もしみんなが良品なのであれば、政府はいらないで無政府主義(アナーキズム)でよいのだし、法律もなくてよい。性善説で、惻隠(そくいん)の情をもって見られるのはあるが、現実には性悪説でなりたっているととらえられる。人間は多かれ少なかれ不良品(不完全)であって、ていどのちがい(見かたのちがい)ということではないだろうか。

 岸田秀氏の唯幻論では、動物とはちがい、人間は本能が壊れているとされている。本能が壊れているという欠陥を人間はもつ。それで文化や文明などをつくっている。人間は、自己幻想や対幻想や共同幻想などの幻想や観念の思いこみにたよっているのである。

 参照文献 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『唯幻論物語』岸田秀