政党の中で、もめごとがおきる。そのもめごとを、紛争としてとらえてみると、どのような見かたができるだろうか。
紛争では、三つの点をあげられる。お互いにもめ合っている主体どうしがいる。日本共産党でいえば、党の上の上層部が主体としていて、もういっぽうには党から除名された主体がいる。除名された主体は、党の上層部を批判した。
主体のほかに、手段と争点がある。手段としては、党を除名された主体は、党の決まりに従わなかった。党の決まりをやぶった。そうした手段をとったのがあり、それを党の上層部からとがめられたのである。
手段としては、党の内の決まりをやぶったのがあるから、そのことがすごい悪いことなのだとされた。これは、手段のよし悪しの話である。
よい手段をとるべきであり、悪い手段をとるべきではない。それはたしかにそう言えるのはあるけど、悪い手段をとってはいるけど、良いことをうったえることも中にはある。とった手段は悪いけど、良いことを言ったりやったりすることが中にはあるのである。
その主体が悪い手段(ばあいによっては、すごい悪い手段)をとったのだとしても、それだからといって、その主体の思想とその思想にもとづいた主張が、ぜったいに正しくないのだとは言い切れそうにない。主体がもつ思想やそれにもとづいた主張が、少しも正しくないのだとは結論することはできそうにない。
どういうふうにするべきなのかといえば、その主体がたとえ悪い手段をとったのだとしても、その主体のぜんぶを何から何まで悪いのだと結論しないようにすることだろう。手段のよし悪しによって、その主体が丸ごとよいか悪いかを総合しないようにする。手段がよいか悪いかによってぜんぶを総合しないようにする。
うまいぐあいに紛争を片づけて行く。主体どうしがお互いにぶつかり合っていて紛争がおきているのを片づけて行くためには、いっぽうの主体を全否定しないようにして行く。いっぽうの主体を否認しないようにして、承認するようにする。
共産党がやるべき正義は、共産党と対立している主体を承認することだ。党と対立している主体を否認するのではなくて、承認するようにすれば、共産党は正義をなすことができた。そのように見なしてみたい。
党の内の決まりがあって、それをやぶることは、手段としては悪いことではあるかもしれない。その悪さはあるけど、党の内の決まりが、完ぺきな制度の正義に当たるのだとは言い切れそうにない。
いまの時代に完ぺきに合っているのではなくて、時代おくれになっていたり、時代の錯誤(obsolete)になっていたりするおそれがある。制度が古くなっていて、制度の疲労を引きおこしていることがある。
完ぺきに制度の正義になっているとは言い切れないから、党の内の決まりがぜったいに正しいのだとは見なせそうにない。ばあいによっては制度の正義を見なおすようにして、それを改めたり修正したりして、更新することがいることがある。
人為や人工で構築されたものなのが制度の正義だから、それを脱構築(deconstruction)することがなりたつ。脱構築をするのを試みることが、実践の正義としていることが中にはある。党の内の決まりが、まちがいのない完全な自明性をもっているのだとまでは見なせそうにない。
参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『構築主義とは何か』上野千鶴子編