戦争をおこしたロシアへの経済の制裁と、日本への経済の制裁―広い意味での経済の制裁

 ロシアには経済の制裁が行なわれている。

 ウクライナに戦争をしかけたのがロシアだから、そのロシアに経済の制裁が行なわれているのはすじが通っている。

 ロシアのように、あたかも日本にも経済の制裁が行なわれているかのようだ。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 経済の制裁が行なわれているかのように、日本では経済で苦しんでいる人がおきている。そのことについてをどのように見なせるだろうか。

 いわれがあり、説明ができるのが、ロシアに経済の制裁が行なわれていることだ。ロシアは戦争をしかけたのだから、経済の制裁が行なわれてもしかたがない。原因と結果がなりたっている。すじが通っていて、応報律がなりたっている。

 日本にたいして、あたかも経済の制裁が行なわれているようであるのは、いわれがない。説明ができづらい。条理であるよりは不条理だ。

 かりに、経済の制裁が行なわれるのを、不幸であるといえるとすると、それにたいして説明ができるのと、できないのとがある。不幸だけではなくて、幸福であることにも、説明ができるのとできないのとがある。

 不幸であるのや幸福であるのに、説明がなりたつのは、不幸や幸福の神義論だ。神義論がなりたたなくなってしまっていて、説明ができなくなっているのがある。

 なぜ神さまがいるのに、世界には悪があるのかを説明しようとするのが神義論であるとされる。弁神論とも言われる。神義とは正当性の意味だ。正当性をとるために持ち出されるのが物語だ。物語によってものごとを説明づけて行く。正当性が与えられることになる。

 世界にはいろいろな悪があり、悪に満ちていることは否定できない。悪があることの説明をなりたたせられず、ざせつしてしまう。神義論は自分で自分を否定することにならざるをえない。学者のマックス・ウェーバー氏はそう言う。

 戦争がおきていることでいえば、なぜロシアやウクライナでそれがおきていて、ロシアやウクライナの国民がそれに巻きこまれているのかは、十分に説明ができづらい。不条理なところがある。ロシアやウクライナの国民が戦争に巻きこまれるのは、どちらかといえば、いわれがないことだ。

 不幸であることや幸福であることに、説明をつけようと思えばつけることはできるけど、物語の形になる。物語の形をとることによって、不幸や幸福について説明をつけられたとしても、それが客観の説明として成り立っているとはかぎらない。

 日本に経済の制裁が行なわれているかのようであることには、それを物語として説明することはできなくはないけど、なぜかそうなっているといったところがある。説明が成り立たないところがあり、神義論によることができない。なぜかはわからないけど、不幸に置かれている、または幸福に置かれている。

 説明がきくところと、説明がきかないところの二つがあり、その二つを見て行ける。説明がきくようであったとしても、それは物語の形をとっているのがあり、物語は原因と結果を線(linear)で結びつけたものだ。単純な形にしたものが物語であり、現実の複雑性をとり落としていることがある。現実は複雑系(complex system)だから、うまく説明ができないところがある。

 参照文献 『帝国の条件 自由を育む秩序の原理』橋本努 『倫理思想辞典』星野勉、三嶋輝夫、関根清三編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『「複雑系」とは何か』吉永良正 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一