五輪と心―日本の国の精神論によるまちがったあり方

 安心で安全な五輪にする。与党である自由民主党菅義偉首相はそう言う。このことをどのように見なすことができるだろうか。哲学者のカール・ポパー氏がいった世界三の理論によってそのことを見てみたい。

 ポパー氏の世界三の理論では、世界一は物だ。世界二は心だ。意識や感性や意図である。世界三は観念の構築物だ。言葉や制度がある。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで、ウイルスは世界一に当たるものだ。たんぱく質の一種なのがウイルスだとされる。物としてウイルスが社会の中に広がっているのだと言える。

 日本の国では、精神論がとられることが多い。精神論によってものごとを乗り切ろうとしがちだ。ウイルスの感染が広がっているなかで日本の国がぎりぎりで持ちこたえられているのだとすれば、それは精神論によるところが小さくない。

 じっさいにものごとにあたっている現場にたいして、充実した物質の手当てをほどこすことが日本の国ではとられづらい。その代わりにとられることになるのが精神論だ。戦争のさいにもそれがとられた。精神論によって無理やりに乗り切らせようとしたのである。上はぬくぬくで下はかつかつといった不平等さがあった。

 政治では新自由主義(neoliberalism)がとられているために、現場にたいして充実した物質の手当てがなされづらい。何とか精神論によってそれぞれの人間がそれぞれで乗り切れとしている。精神論によって持ちこたえさせようとしているのである。

 ウイルスの感染が広がるのは物に当たるものだから世界一であり、世界一のところがどうなっているのかをくわしく見て行くことがおろそかになっているのが日本の政治だろう。現場にたいして物質のほどこしの助けをしっかりとやって行こうとはしないのがあるから、世界一をおろそかにしている。

 世界一においてきびしくなっているのを、世界二の心による精神論によってごまかそうとしている。世界二の心によってごまかそうとすることが行なわれる。世界一および世界三である制度をしっかりと整えようとすることが行なわれず、世界三に当たる説明の責任(accountability)が政治において果たされない。

 世界二にあたる心のところだけが、日本の政治ではゆいいつと言ってよいほどに重んじられている。精神論でものごとを乗り切ろうとしているためだ。そこに見てとれるのが新自由主義である。国の財政の苦しさやきびしさがあるから、しかたがない面もあるにはある。国の財政の苦しさやきびしさからするとやむをえないところがないではないが、現場にそうとうなしわ寄せがかたよって行ってしまっているのは見すごすことができない。

 心である世界二によることだけに重みが置かれてしまっているのが日本の政治ではありそうだ。戦争のさいにもそれがおきたのがある。おろそかになってしまっているのが世界一の物のところや世界三の政治における説明の責任や制度を充実させて行くことだ。

 おろそかになってしまっている世界一や世界三をしっかりとやって行くようにしたい。世界二である心に重みを置くことを改めて、精神論によるのではないようにして行きたい。精神論によることによって現場にそうとうなしわ寄せがかたよって行ってしまっていて、自己責任論がはびこることになる。

 参照文献 『神と国家と人間と』長尾龍一 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」』長谷川眞理子 山岸俊男ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん)