二〇二一年の東京五輪の記録映画にのぞみたいこと―五輪の美しさとみにくさ

 二〇二一年の夏に東京都で行なわれた五輪についての、記録映画がつくられる。有名な日本の女性の映画監督が、この映画の総監督をつとめるという。今年の六月に公開される予定だ。

 東京五輪の記録映画がつくられるが、それにのぞみたいこととしてはどういったことがあるだろうか。のぞみたいこととしては、映画をつくるうえで、そうとうな批判の精神が求められる。批評の意識をそうとうにもってつくって行くのであったらよい。

 時系列によって見てみると、一九六四年にひらかれた東京五輪よりも、五輪をひらく必要性がずっと低かったのが二〇二一年の東京五輪だろう。もよおしとしての必要性が低くなっていることから、許容されないところがおきて、五輪をひらくことへの反対の声が小さくなかった。

 かつてに比べて、いまは人それぞれで価値が多様化していて細分化しているから、みんなでまとまって一つのことを楽しむのには無理がある。すべての人が五輪にたいしてぴったりと価値が合うのではなくなっていて、価値がずれる。完ぺきには信頼できない。五輪にたいして少なからぬ不信感や信頼のできなさがおきることになる。

 東京都で五輪をひらいたことを、正当化しようとするのは、ありがちなことだが、そうではなくて、五輪が意味のないものであったことをしめす。無意味な対象や客体(object)なのが五輪だったのだとする。五輪には意味があったのだとして正当化するのではなくて、無意味なものだったのだとしたほうが、映画としてはおもしろそうだ。健全なもよおしだったのだとするのではなくて、退廃(decadence)に満ちていた。

 アメリカの映画監督のマイケル・ムーア監督がつくる映画のように、ある一つの視点からではなくて、対立する二つの視点から映画をつくる。二つの視点をぶつけ合わせる。東京五輪の記録映画を、ムーア監督がつくる映画のようにしたら、じっさいの五輪のすがたに少しは近づけられそうだ。

 日本でありがちなこととしては、西洋の哲学でいわれる弁証法(dialectic)で、正(thesis)と反(antithesis)と合(synthesis)がある中で、たやすく正つまり合としてしまいやすい。正にたいして反があり、正と反をねばり強くぶつけ合わせることが行なわれない。

 東京五輪の記録映画では、弁証法でいえば、たぶん正つまり合とするような内容になるだろう。たやすく合にもっていってしまうと、閉じたあり方になってしまう。閉じるのではなくて開くようにして、合にいたらないままで、正と反をねばり強くぶつけ合わせつづけて行く。

 ちがう複数の視点を互いにぶつけ合わせることではじめて見えてくるものがある。正つまり合として、体制やお上による視点を特権化して、五輪をひらいたことを正当化して、それが意味があるものだったのだとするのだと、表面によるものになり、深くまで掘り下げられているとは言えない。表面のものにとどまるようであればあまり意味はなく、そこからどれだけ深くまで掘り下げることができるのかによって、はじめて価値がおきてくる。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『対の思想』駒田信二(しんじ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)