憲法の改正と、憲法の改正の改正―より上位の改正

 憲法の改正を目ざす。与党である自由民主党はその動きをとっているが、そのことについてをどのように見なせるだろうか。自民党がとっていることの中に含まれるまちがいの一つとしては、義務と許可のとりちがえがある。

 憲法を改正することは義務ではなくて許可されていることにすぎない。義務ではないから、やらないとならないことだとは言えない。そこを取りちがえているのが自民党だ。

 義務に当たることなら、それをやらないとならないことになり、うむを言わさせないような客観のものだ。客観の状態にもとづくのよりも、主観によっているのが憲法の改正を目ざすことだ。客観の状態として、すべての日本の国民に害をなしていて、すべての日本の国民が幸福になることのさまたげになっていることが事実として証明されているのがいまの憲法だとは言えそうにない。

 許可されているのが憲法の改正だから、そこには構築性があると言える。構築性があることから、憲法を改正することができることになる。人間が人為に構築したものでなければ、人間が変えることができないものがある。自然にあるものであれば、人間が作ったものではないから、人間の手では変えられないものがある。

 構築性があるのが憲法だから、それを改正しようとすることはできるが、そのことをより上位から見てみると、憲法の改正もまた構築性をもつ。憲法の改正には構築性があるから、憲法の改正の改正もなりたつ。

 憲法の改正と、憲法の改正の改正がせめぎ合う。そのことを量の場所性(topos)と質の場所性で見てみられるとすると、憲法を守ろうとするのは保守性によるから量の場所性だ。憲法を改正しようとするのは革新性によるから質の場所性だ。そのいっぽうで、憲法を改正しようとしているのは多数派である与党の自民党であり、自民党は保守に当たるから量の場所性だ。憲法を守ろうとしているのはいまはどちらかといえば少数派だから質の場所性だ。

 憲法を守ることと、憲法を変えようとすることは、どちらにも量と質の両方の場所性が含まれている。量と質の両方の場所性がそれぞれの立ち場にともに含まれているので、どちらの立ち場もそれなりに正しいし、逆に言えばそれなりにしか正しくないと言えることになる。

 量と質の場所性のせめぎ合いからすると、憲法を守るのと変えるのとのどちらの立ち場の中にも、量と質の両方の場所性が含まれているから、すっきりとしないところがある。一つの立ち場の中に、量と質の場所性がともに含まれているから、量を取れば質をとり落とし、質を取れば量をとり落とす。一つの立ち場の中でそれがおきてしまう。

 一つの立ち場の全体があり、その部分として量と質の場所性が含まれている。全体を見ると部分をとり落とし、部分を見ると全体をとり落とす。憲法の改正を目ざすのだとしても、その立ち場をとるのであれば、それよりも上位の憲法の改正の改正もまたなりたつから、改正が改正を呼びおこすといったことになる。下位の改正が、上位の改正を引きおこす。

 憲法の改正を目ざす改憲の立ち場をとるのだとしても、理想論によるあるべき憲法があるから、護憲の立ち場を含む。護憲の立ち場をとるのだとしても、憲法の改正の改正を含み、広い意味においては何かを改正することを含む。

 改憲の立ち場においては、いまの憲法が悪いことになっているから、文学のカーニバル理論でいう冬の王に当たるのがいまの憲法だ。カーニバル理論の殺される王の主題において、殺されるべき冬の王がいまの憲法である。立ち場を変えて護憲の立ち場からすると、冬の王に当たるのが改憲をめざす動きだ。改憲をめざす動きが力をもって多数派になっているのをなんとかして抑えこむ。冬の王を弱めさせて、うまくすれば王を殺して、憲法を変えさせないようにして行く。

 改憲と護憲の立ち場で、何を冬の王とするのかでちがいがある。どちらの立ち場においても、冬の王を倒そうとしていることでは共通点をもつ。どちらかの立ち場が、冬の王を倒そうとすると、ちがう立ち場もまたそれとはちがった冬の王を倒そうとしはじめる。それぞれが、ちがう冬の王を倒そうとしはじめることになる。

 いっぽうの立ち場にとっては冬の王であったとしても、他方の立ち場にとっては冬ではなくて春や夏に当たる。いっぽうの立ち場が冬だとしているものが他方の立ち場にとっては春や夏に当たっている。

 なにを冬とするのかや、なにを春や夏とするのかで、立ち場のちがいによってとらえ方が逆になっていて、いっぽうが北半球であるとするのなら、他方は南半球となっている。そのなかで、冬であればだめだとは言い切れないし、春や夏が来ればよいとも言い切れそうにない。いっぽうの立ち場にとっては冬が春や夏であり、他方の立ち場にとってみれば春や夏が冬になっているからだ。おなじ十二月であったとしても、いっぽうでは冬だが、他方では春や夏といったことになっている。

 憲法を地球の球体になぞらえられるとすると、地球の全体には、部分として北半球と南半球があり、北半球をとらえると南半球をとり落とす。南半球をとらえると北半球をとり落とす。北半球でよいことが南半球では悪いことになり、その逆もしかりだ。北と南でずれているのがあり、おり合いがつきづらい。北がよいとは言い切れないし、南が悪いとも言い切れない。

 参照文献 『社会問題の社会学赤川学改憲的護憲論』松竹伸幸 『発想のための論理思考術』野内良三(のうちりょうぞう) 『忠臣藏とは何か』丸谷才一クリティカルシンキング 入門篇 実践篇』E・B・ゼックミスタ J・E・ジョンソン 宮元博章、道田泰司他訳