新しく作られるこども家庭庁は、子どものためになるのかが疑わしい―悪い干渉になりかねない

 こども庁をつくる。与党である自由民主党は子どもに関わることをになう省庁つくろうとしているが、その名前がそれまでに予定されていたものから変わり、こども家庭庁になるという。

 なぜ子どもにかかわる省庁の名前を変えることになったのかといえば、自民党が右派の文化人から意見を聞き、それをとり入れたことによるという。岸田文雄首相は聞く力があると自分で言っているが、右派からの意見をすんなりととり入れるのからすると、右耳がよいようだとツイッターのツイートでは言われていた。

 子どもについてのことをになう省庁の名前を変えたことについてをどのように見なすことができるだろうか。そこにすけて見えるのは、やっかいなことやめんどうなことは家庭に押しつけようとする国の体質だ。

 子どもを含めた家庭の中の家族たちがみんな安心して幸せに生きて行けるようであればよい。よいあり方の家庭ならまずいことはないが、そういったよい家庭ばかりではないからまずいことになっている。家庭の中は、家庭内暴力(domestic violence)や子どもへの虐待などの温床になりやすい。危険な場所なのが家庭の中だ。

 集団の大きさからすると、家庭はわりと小さめの集団であり、そうした小さい集団には危険性がある。小さい集団がもつ危険性は、それよりも大きい集団が和らげることがいる。家庭に任せるのではなくて、家庭を飛びこえて、家庭よりも大きい集団である国が子どもに助けの手をさしのべるのがいる。

 個人を救う点からすると、個人としての子どもを、家庭を飛びこえて国が救えるようになっていたらよい。国は家庭のあり方には介入するべきではないが、家庭の中の個人を救うさいには、個人が救い出されるようにしたほうがよい。

 ほんらいは国がになうようにするべきことを、家庭に押しつけてきているのが日本の国のあり方である。これまでそのあり方でやって来ているのがあり、それがそのままこれから先にも引きつづいてしまいかねない。これから先も、やっかいなことやめんどうなことを家庭に押しつけつづけようともくろんでいるのが自民党だろう。

 子どもが少しでも生きて行きやすいようにするために、家族のあり方を変えるようにして行く。なにが大切なことなのかと言えば、家庭が大切なのよりも、その中の個人がより大切だから、個人を単位にするようにする。日本の国のあり方は、個人ではなくて世帯を単位にしてしまっているから、個人への視点がとられていないことが多い。

 へたに国が家族のあり方に介入しないようにして、いろいろな自由な家族のあり方にできるようにして行く。家族の中は危険なのがあり、小さい集団であることから来る危なさがあるから、家族がもつプラスである順機能(function)だけではなくてマイナスの逆機能(dysfunction)を十分にくみ入れるようにする。

 家族がもつマイナスの逆機能としては、いまは集団の統治(governance)がなりたちづらくなっていて、統治がむずかしくなっている。人どうしがいっしょにまとまって生きて行く必然性が必ずしもなくなっていて、日本のこれまでの家父長制(paternalism)のあり方が崩れている。戦後においてもとられてきた、男性が優位に立ち、家の中で長となる型が通じなくなってきている。この型は、戦後の経済の高度成長のときには通じていたが、いまでは壊れてきていて、家庭や労働や教育のそれぞれにまずさがおきていて、それらのあいだでの循環が(かつてのようには)おきなくなっている。

 いろいろな文脈がある中で、小さい集団である家族にかならずしもしばりつけられることはないし、それよりも大きい集団であるとはいえ、日本の国にしばりつけられることもまたない。家庭であっても日本の国であっても、ひとつの文脈であるのにすぎず、そこには必然性がない。絶対の自明性はない。

 いろいろな文脈がありえるから、いろいろな文脈にふれられるようにして、その中の一つひとつの文脈が絶対化されないようにしたい。家庭であっても日本の国であっても、どちらも相対化されるようにして、たんにいろいろにある文脈の中の一つであるのにすぎないものと位置づけたい。

 参照文献 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『社会を結びなおす 教育・仕事・家族の連携へ(岩波ブックレット)』本田由紀 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』橋本治(おさむ)