いまの憲法は、何としてでも変えなければならない。改めないとならない。憲法の改正を目ざす改憲派はそうしたあり方をとっている。
改憲派と護憲派とで、あり方がちがっていると見なせるとすると、そこには相違点がある。その相違点として、改憲派は西洋のあり方で、護憲派は東洋のあり方だというふうにとらえることができるかもしれない。
改憲派は西洋のあり方をしているのできっちりとしている。違憲なものはあくまでも違憲だ。黒を白とするのはまやかしでありごまかしにほかならない。かたや護憲派は東洋のあり方をしているのでゆるい。中間や灰色の領域がある。そこに見られるのは、西洋のロゴスと、東洋の仏教のレンマのちがいだ。
東洋の仏教のレンマとは、西洋のロゴスを超えるところがあるものとされていて、西洋のロゴスによるしばりにとらわれないあり方だという。
学者の中沢新一氏の『レンマ学』によると、レンマの知性は仏教の縁起や無分別や非時間や非線形や非局所だという。
仏教の縁起の理法とは、細かい関係の網の目でつながり合い、関わり合っているようなあり方だという。直接の原因を因として、間接の原因を縁として、それらによってはじめて現象である果がおきるとされる。
西洋のロゴスにしばらないで、それを超えてしまうことによって、危なさがおきるのはあるけど、うまくすれば柔軟なあり方になることができる。東洋の仏教のレンマには、西洋のロゴスからすれば、危なさがあることはたしかだが、それを超え出る見こみもまたある。
ロゴスとレンマということで説明するのは少なからぬ無理があるかもしれないが、かりに西洋のロゴスにしばられない見かたがとれるとすれば、仏教の東洋のレンマによる柔軟なあり方は、必ずしも頭ごなしに(頭から)まちがっているとは言い切れないところがあって、そこを見ることがあったらよいかもしれない。
参照文献 『発想のための論理思考術』野内良三(のうちりょうぞう)