性の被害者は笑わないのか―性急な一般化と自然主義の誤びゅう

 性の被害にあった人は笑うことはない。性の被害にあった人についてそういう見かたが言われていた。これは独断と偏見による見かただと言える。

 場合分けをして見てみると、性の被害者は笑うこともあれば笑わないこともあるだろう。また、性の被害者ではない人も、笑うこともあれば笑わないこともある。

 たとえ笑っているからといって、性の被害者ではないとは言い切れないし、たとえ笑っていないからといって、性の被害者だとは言い切れない。

 笑っていようとも、笑っていなかろうとも、性の被害者であることもあるだろうし、そうではないこともある。そこは何とも言い切れないところである。

 性の被害者であったとしても、必然的にいついかなるさいにも笑わないわけではなく、可能性として笑うことは当然にあることだ。笑う可能性がゼロだとは言えない。

 性の被害者ではなかったとしても、必然的にいついかなるさいにも笑っているのではないし、可能性としては笑うこともあればまた笑わないこともある。

 笑うか笑わないかのちがいは必ずしもはっきりとはしがたい。つくり笑いというのもあるだろうし、つられ笑いもあるし、社交的な笑いもあるし、ほんの少し笑うことである微笑もあるし、ひと口に笑うとはいっても色々な種類があげられる。

 性の被害者は笑わないのにちがいないとするのは、場合分けをしたさいの四つのうちの一つだけをとるものであって、一面を強く強調しすぎてしまっている。これは誤った性急な一般化だし、自然主義の誤びゅうだとも言えるだろう。何々である(is)から、何々であるべき(ought)を導いている。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『「ロンリ」の授業』NHK「ロンリのちから」制作班 野矢茂樹(のやしげき)監修 『論理的に考えること』山下正男