九条も、改憲の議論の例外ではないのか―論憲で、九条の改憲も話し合われるべきなのか

 憲法を論じて行く。論憲による。野党の立憲民主党泉健太代表はそう言っている。

 泉代表は、論憲によるようにして、憲法の九条も、憲法の改正の話し合いにおいてとり上げて行くのだとしている。憲法の九条も、例外に当たるのではなくて、それも改憲の議論の中にくみ入れて行くのだとしているけど、これはふさわしいものなのだろうか。

 危ぶまれるところがあるのは、憲法九条が変えられてしまうところだろう。論争のあり方と信念のあり方があって、論争をよしとすることによって、信念のあり方に巻きこまれてしまいかねない。

 信念のあり方では、信念の護憲と信念の改憲があるけど、そのうちで、信念の護憲は力がはなはだ弱い。信念の改憲は力がはなはだ強い。力の不つり合いになっているのがあって、信念の改憲に立ち向かうためには、信念の護憲によることがいるところがなくはない。

 信念の護憲であるよりは、論争の護憲のあり方なのが泉代表だ。論争の護憲によるのだと、信念の改憲のあり方に巻きこまれてしまって、とにかく改憲しさえすればよいのだとするのに押されてしまう。何がなんでも九条を改憲するのだとするのがすごい力をもっているから、その力に飲みこまれてしまいかねない。

 のぞましいのは、論争の護憲と論争の改憲がたがいに話し合いをするあり方だ。そこにもって行ければよいのがあって、泉代表はそれをねらっているのがあるのだろう。そのねらいは必ずしも悪いものではない。

 憲法を守る護憲のあり方では、信念のものと論争のものがあるけど、この二つはどちらにも理がある。信念のあり方に理があるのは、信念の改憲の力がすごい強いのがあるから、それに立ち向かうためには信念の護憲によるようにしなければならないところがあるからだ。もともと力が弱いのが護憲だから、信念によるくらいでないと、(すごい力を持ったものである)信念の改憲には立ち向かえない。

 たんに、あり方そのものとして見てみれば、泉代表の論憲のあり方は、そう悪いものではなくて、よいところがあるものだろう。護憲と改憲の力の関係の不つり合いを抜きにしてみれば、護憲にも理があり、改憲にも理がある。おたがいに理がある。

 論憲で、論争のあり方によるようにするのは、西洋の哲学でいわれる弁証法(dialectic)のあり方になる。弁証法のあり方を、単純に当てはめるのは必ずしもよいことではないけど、それによるようにしたほうが、問答無用で憲法(を守ること)が正しいとしてしまうのを避けやすい。

 憲法を守ることは、とても大事なことだけど、それと同じかそれより以上に大事なのは、問答無用のあり方にできるだけならないようにして、弁証法によるようにして行くことだろう。弁証法によるようにして、議論や論争をやって行く。憲法であれば、論憲で話し合いをどんどんやって行く。

 いまの日本の憲法は、普遍によるものなので、へたをすると問答無用のあり方になりがちだ。とにかく正しいものなのだから、守るのが正しいのだとなり、押しつけのようになる。普遍の価値(人権の尊重など)のよさがあるのがいまの日本の憲法だが、普遍には押しつけになる欠点がある。

 信念の護憲のあり方だと、問答無用で憲法をよしとしてしまいかねず、問答無用になってしまい、弁証法によれなくなりかねない。そこが欠点だ。

 力の不つり合いをくみ入れると、信念の護憲には理があるのはたしかだけど、あまり護憲を中心化しすぎるとまずい。改憲を排除する、排斥のあり方になりかねない。改憲も包摂するようにして、論争の護憲と論争の改憲が、おたがいに仲よく話し合いをして行く。

 民主主義においては、立ち場がちがう者どうしで論争をやって行くことが理想だ。そのさいに、論争それそのものに重きをおくようにして、そこにしっかりと力を入れて、じっくりと労力をかけて話し合いをやり、過程(process)を最大に重んじるようにするのがよい。過程にもっとも意味があるのだとしたい。とことんまで、憲法のいろいろな論点について、深めて行くようにして行きたい。

 参照文献 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『問答有用』佐高信(さたかまこと) 田中真紀子宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『できる大人はこう考える』高瀬淳一