立憲民主党の新しい代表が選ばれた―新しい代表は、のぞましい人物なのか

 野党の立憲民主党で、新しい代表が選ばれた。代表選が行なわれていて、新しい代表が決まったが、そのことについてをどのように見なせるだろうか。それについてを、事実(is)と価値(ought)と、信頼性と、枠組み(framework)の点によって見てみたい。

 新しい代表が選ばれたのは事実であり、そのことと、価値がどうなのかを分けて見られる。いまの日本の社会の中は、価値が多様化しているのがあるから、すべての人がよしとするようにはできづらい。

 ある人はよしとするが、別の人はよしとはしない。そうなりやすい。人それぞれによって価値の持ち方がちがう。血管でいうと、太い大動脈や大静脈ではなくて、毛細血管のようであり、人それぞれで好みが細分化されているところがある。

 価値がたがいに合っていれば信頼がなりたつ。価値が互いに合っていないと信頼できにくくなり、不信や疑いがおきてくる。だれからも信頼されるのはむずかしい。ある人からは信頼されるが、別の人からは信頼されない。

 新しい立憲民主党の代表がもっている枠組みがあり、その枠組みと、自分がもっている枠組みとが合うか合わないかがある。枠組みがお互いに合えば信頼できるが、ずれていれば信頼できづらい。

 たがいに枠組みが合わずにずれてしまうのは、ある点においてはしかたがないことではある。おたがいに他人どうしだから、多かれ少なかれ枠組みがぴったりとは合わずにずれるところがおきてくる。合わないところがあり、ずれがあったとしても、そのずれが許容することができるかどうかがある。許容できる範囲の内にあるずれなのか、それともその範囲の外にあるずれなのかだ。

 確率としては大きくは二つあって、自他の枠組みが合うのと、合わないのとがある。二つのどちらかになるのがあって、合うのならよいが、合わないのならそれはそれでしかたがないところもある。自分の枠組みをいまいちど相対化してみて、それとはちがう枠組みに持ちかえるようにしてみたら、それにはそれなりの合理性(自分とはまたちがう形の合理性)があることがあるから、まったく理解できないほどではないことがある。

 かりに、自分がもっている枠組みと同じ人が新しい代表に選ばれるのだとしても、そうだからといってそれが客観によいことなのだとは必ずしも言い切れそうにない。自分と枠組みが合うからといって、それが客観に高い価値をもっているとは言い切れず、その代表の党の支持が大きく伸びることにはならず、党の力が落ちてしまうこともある。自分と枠組みが合うからといって、それが党の力が伸びることによくはたらくとは言い切れず、かえって悪くはたらくことがないではない。自分の持っている枠組みを絶対化しなければそう言えるだろう。そこがむずかしいところだ。

 参照文献 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)