失言をしたことがよくないのか、それとも報じるさいの切りとり方がよくないのか

 森喜朗氏が言ったことを、報道機関はおかしな切りとり方で報じている。森氏が言ったことの全文を受けとるのならば意味あいはまたちがってくる。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 女性が参加者として参加している議論は時間がよけいに長びくと言ったのが森氏だ。それが日本の国の中だけではなくて海外にまで波紋を生んだことをうけて森氏は東京五輪組織委員会の委員長の地位をしりぞくことになった。

 ツイートで言われているように、森氏が言ったことをを切りとった形で報道で報じることはまちがったことなのだろうか。それについてを、切りとったものがいろいろにある中のいくつかにまちがいがあることと、そもそもの話として切りとることでおきてくるまちがいに切り分けて見てみたい。

 そもそもの話として言われたことを切りとって報じてはならないとはいえそうにない。切りとることによってもとのものが変形してしまうのはあるが、それをする必要性があるから許容されてもよいものだろう。それが許容されないのだとするともとのものをそのままぜんぶ報じないとならないから、受けとる方としてもよけいに労力がかかることになる。

 あらゆることについて、言われたことを切りとって報じてはいけないとはいえないから、それをみんながうなずけるような大前提とすることはできづらい。もしもそれを大前提とするのであれば、あらゆることについて言われたことを切りとってはならないことになるから、はなはだしく非効率になる。

 言われたことについてだけではなくて、広い意味ではいろいろなものごとを報道で報じることは一種の切りとりだと見なせそうだ。ものごとを報道で報じることができるのは、もとのものを切りとることが可能であることをあらわす。ものごとを切りとることによって核となる意味あいのようなところをとり出す。うまくすればそれが可能だ。

 ものごとを切りとることそのものがだめだといったことではなくて、それよりもむしろ価値や枠組みが合わないことで信頼し合うことがなりたたなくなることが重みをもつ。そう言うことが言えそうだ。

 おたがいに信頼し合えていて枠組みが合っている者どうしなのであれば、ものごとを切りとることが許容されるはずだ。ものごとの切りとり方の息が合う。おたがいに気が合う。たとえものごとについて変な切りとり方をしているのだとしても、おたがいに信頼し合っているのであればぶつかり合うことはない。

 いろいろに切りとられることの中に、変な切りとられ方があるのだとすると、それが印つきになる。有徴化(marked)される。変ではない切りとり方のものは無徴化されることになる。変ではない切りとり方のものであったとしても、そこに何もまずいところがないとは言い切れそうにない。見かたによってはまずいところがあるおそれがあるし、完ぺきに適正だとはいえず、何かを犠牲にしているおそれがある。

 ひとつの仮説としてとれそうなのは、もとのものに何らかのまずいところがたとえ部分的にせよあることから、それが切りとられてとり上げられることになる。それでとり沙汰されることになる。もとのものがまったく何のまずいところを含んでいないのであれば、それが批判されるかたちで切りとられることは原則論としてはあまりないことなのではないだろうか。

 無いことについてをじかに証明することはできないから、それを間接に証明することができるのだとすると、もとのものがまったく何もまずいところを含んでいないのだとすると、それは原則論としてはたいていは受け流されることになる。とり上げられない。批判されるかたちで切りとられて報じられることはおきることがあまりない。

 自然科学のような厳密な正確さによる因果関係では言うことはできないが、こういうときにはこうなりやすいといった型(pattern)として言えるとすると、まったく何の少しのいわれもないのにもかかわらず、それがまずいことなのだといったことで切りとられて報じられることはあまりおきづらい。もとのものがたとえほんの少しではあったとしても何らかのまずいところを含んでいて、それが火となって煙が立つ。

 おおよその型としては、もとのものに含まれるまずいことを知らしめるために切りとられることになる。それがひどくなるともとのものに含まれるまずいところをひどく誇張することもあるだろう。誇張しすぎることはよくないことではあるが、そうかといってあらゆることが必要以上に誇張されているとはかぎらない。

 口からじかにものを言うことはむずかしいのがあるから、口言葉はわざわいを生むことがときにおきがちだ。それにくらべて文字を書くことによって言葉をあらわすのは相対的には安全性がやや高い。文字を書くことで言葉をあらわすのであれば、とちゅうで自分で気がついて修正することができることがある。それに比べて口言葉においてはそのときのその場の文脈の中で口から発せられた言葉をあとになってとり消すことは困難だ。

 口言葉で話すことは、自分の思想(thought)ととっさのひと言によってなりたつ。自分の思想がふいに外にあらわれ出てしまうことがあるから、そうすると自分がどのような思想を抱いているのかが外に知られてしまう。自分がもっている思想がもしもまちがったものであるのならそのまちがいが明らかになることになる。そういったきびしさがあると言えるだろう。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭 『やりなおし基礎英語』山崎紀美子 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦