いろいろにある中で、どの政党がいちばんよいのか―政党どうしの競争性と包摂性

 どこの政党がよりよいのだろうか。どこがよりましなのだろうか。野党の中でいえば、どこの野党がいちばんよいのだろうか。そのことを具体論と抽象論によって見てみたい。

 どこの政党をよしとするのかは具体論によるものだ。それぞれの政党のちがいは、差別化や差異化によるものだが、そのちがいは、選択と組み合わせのようなところがある。

 それぞれの政党のちがいは、選択と組み合わせによっていて、ある限られた政策をどう組み合わせるのかのちがいである。組み合わせのちがいにすぎないから、それが完ぺきに正しいともいえず、完ぺきにまちがっているとも言えそうにない。意見を言うのと同じところがあり、ひとつの意見もまた単語の選択と組み合わせによるものであり、意見の正しさはていどのちがいにすぎない。

 ちがいの点を見てみれば、それぞれの政党で中身に相違点があるが、同じである点を見てみれば、形式としては政党である点に共通点がある。具体の中身としてはちがいがあっても、抽象の形式としては同じだから、抽象化して見ることがなりたつ。

 どこかの政党をあまりにも強くよしとしすぎてしまうと、その政党とのあいだに距離をとれなくなってしまい、まひさせられてしまう。これは具体論によりすぎるところから来るものだ。具体論によりすぎないようにして、抽象論でも見るようにして、政党から距離をとることも大事になってくる。政党との距離が近すぎるとまひさせられてしまうから危なさがおきてくる。

 人がなにかの意見を言うさいに、その意見が完ぺきに正しいことはありえづらく、その意見にたいする反論がなりたつことが多い。反対説がなりたつことが少なくない。これはひとつの意見が単語の選択と組み合わせによっているところから来ているのがある。いろいろな組み合わせがなりたち、いろいろな意見がなりたつのがあり、甲乙がつけがたいところがある。

 なにかの意見を言うのは、それ以外のなにかを言わないことであり、おもてに意見をあらわすのとともに、裏に何かを隠すことにもなる。顕在(けんざい)化と潜在化だ。言われなかったことが正しいことがわかれば、言われていた意見が反証されたことをしめす。天気予報で、天気がよくなると言っていて、その逆にその日の天気が悪くなれば、予報で言われていたことが反証されたことになる。あらゆる意見は、反証される可能性があり、またその可能性がないとならない。その可能性をもっていないと妥当な意見とは言えなくなる。肯定性(確証)の認知のゆがみがはたらいているおそれがある。

 どこかの政党だけがよいとは言えないのがあるから、そこで大事になってくるのは、いくつもの政党が認められることだろう。政党どうしのあいだで競争性がおきるようにして、包摂性があるようにする。競争性と包摂性があることによって、政党どうしがおたがいに高め合い、いろいろな民意をすくい上げやすくなる。

 たった一つの政党しかないのではなくて、いくつもの政党があるのが多元主義(pluralism)だ。多元であるのは、要素が一つだけではなくていくつもあることであり、いくつもの要素(政党)があることによって、抑制と均衡(checks and balances)がはたらく。たった一つの要素しかなくて一強になっているとまちがった方向に向かって暴走してつっ走って行きやすいが、いくつも要素があればそれを少しは防ぎやすい。

 いまの日本の政治は、政党どうしの競争性と包摂性がなくなっていて、それらが失われてしまっている。どこかひとつの政党をよしとして、そこをとり立てて行くことよりも、むしろいろいろな政党があることをよしとして、できるだけ競争性と包摂性があるようにして行くこともまた大事だろう。

 きびしく見てみれば、日本にあるさまざまな政党は、どこも似たりよったりであり、新しい政策をつくって行く力をもっていない。どの政党もきちんとした新しい政策をつくる力を持てていない。日本の国は、先行きが明るいとは言い切れず、閉塞感がただよい、息ぐるしい。それは日本の政治において排除の力が強まっていることから来ていて、いろいろなものを包摂するのではなくなっているためだ。いかに排除や排斥の力を弱めるようにして、政党どうしのあいだに競争性と包摂性があるようにできるかが、日本の政治には求められている。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫シンクタンクとは何か 政策起業力の時代』船橋洋一反証主義』小河原(こがわら)誠