証拠があるのかどうかと、そこから言えることの確からしさ―人間の合理性の限界

 そうであることの証拠(evidence)がない。証拠がないのだから、そうであるとは言えない。政治において、与党である自由民主党の政治家などがそう言うことがある。そうであることの証拠がないことをもってして、そうではないのだと言うことはできるのだろうか。

 そもそもの話としては、政治において、あらゆることについてを証拠があるかどうかにもとづいてやっているのだとは言えそうにない。日本の政治では、証拠や事実を重んじて、それにもとづいてものごとをやっていっているとは言いがたい。証拠や事実をかなり軽んじていることが少なくない。証拠や事実を抜きにして、精神論によるあり方がとられることが多い。

 一か〇かや白か黒かの二分法では割り切らないようにしたさいに、証拠があるのであれば、そうであることの見こみは高くなるだろう。仮説として当たっている見こみが高くなる。証拠がなかったとしても、その仮説がまったく当たっていないとは言い切れず、可能性としては当たっている見こみがある。灰色のものであるととらえることがなりたつ。証拠がないからといって、その仮説がまったく的はずれだと言い切ることはできづらいだろう。

 浮気をしたかどうかで互いにもめているのがあるとしよう。そのさいに、浮気をしたことの証拠がないからといって、浮気をしていないとは言い切れないだろう。たとえ浮気をしたことの目ぼしい証拠が見あたらないからといって、浮気をしたうたがいを完全に払しょくできないことがある。あとに証拠を残さないで浮気をすることはありえるかもしれない。かなり用心ぶかく浮気をしていることはないではない。

 場合分けをして見てみられるとすると、そうであることの証拠があるかどうかと、そうではないことの証拠があるかどうかをとれる。そうであることの証拠を見るだけではなくて、そうではないことの証拠もまた見なければならない。そうではないことの証拠がなければ、そうではないと言い切ることはできないものだろう。

 そうでないことの証拠はじかには探しづらいから、直接の証明ではなくて間接の証明となる。そうではないことの反対はそうであることであり、そうであると仮説を立ててみて、その仮説がなりたつかどうかを見て行く。成り立たなければ仮説が否定されたことになり、そうではないことの間接の証明になる。

 そのことの証拠がないのであれば、仮説として完全に正しいとは言い切れそうにない。そのさいに、証拠があるのかどうかをていどのちがいによって見てみられる。さがしてみればほんの少しくらいは証拠となるような何らかのものが見つかることは少なくはないだろう。その証拠が十分ではないとすると、完全に正しいとは言い切れないが、そうかといって完全にまちがっているとは言えないのもある。

 証拠の範ちゅうを広げてみて、品詞でいうと名詞ではなくて形容詞のようにしてみて、証拠らしきものや、証拠になりそうなものや、証拠的なものとしてみれば、ていどとして見てみられる。厳密な証拠そのものは見つからないとしても、証拠らしきものや、それになりそうなものや、それ的なものであれば、少しは見つかりやすい。証拠らしきものや、それになりそうなものや、それ的なものがあれば、少しくらいは仮説が当たっている見こみはある。

 人間は合理性に限界をもつ。どのような証拠にもとづいて、どのように見なすのかにはつねにまちがいのおそれがつきまとう。ほんとうの客観の真実は何なのかを見て行くさいには、かなりの制約がかかっている。その制約をくみ入れることがいり、制約の中でものごとを見て行くしかない。

 ほんとうの客観の真実そのものがわかることは理想論だが、現実論としてはいろいろな制約があるから、けっきょくのところどういったことがほんとうの客観の真実なのかはわかりづらい。あくまでも有力な手がかりの一つになるのが証拠があるかどうかだが、それがあるかどうかだけをもってして、そこからほんとうの客観の真実を知ることはできないのがあり、一〇〇パーセントの完ぺきな合理性によるとは言えそうにない。

 厳密な証拠を探すのはむずかしいことがあり、実証することがむずかしいことがある。たとえば、世界の中に不死身の人が一人もいないかどうかを探し出すことはきわめてむずかしいだろう。しらみつぶしに世界中の人を調べて証拠をつくらないといけないから、それは困難だ。いちおう人間の死亡率(致死率)はみなもれなく一〇〇パーセントだとしておけて、その例外がじっさいに発見されないかぎりは原則としてはそう見なすことがなりたつ。

 完ぺきに客観の証拠がなかったとしても、それは実証することがむずかしいことによるときがある。そうしたさいをふくめて、あらゆる仮説は反証に開かれていることがいる。たとえどのような仮説をとるのにしても、それが当たっていないことがあるから、仮説がまちがっていることがあり、まちがいが明らかになることである反証されることをくみ入れておかなければならない。

 反証に開かれているようにするうえでは、かりに完ぺきに客観の証拠がいまのところないのだとして、そうであるのなら、さしあたってはそのことがないのだと言えるのにとどまる。あくまでもいまのところさしあたっては完ぺきに客観の証拠がないことからそれがないのだと言えるのにとどまり、それがこれから先にまったく反証されないわけではない。たとえどのような仮説であったとしてもそれがこれから先に反証される見こみがあるから、まちがっているおそれを含む。

 たとえどのような仮説をとるのにしても、それが完全に正しいことを実証することはできづらい。証拠があるかどうかとは別に、そもそもあらゆる仮説はそれが完全に正しいことを実証することが困難なのがあるから、反証にたいして開かれているのでなければならない。

 こういう条件であればこの仮説は正しいと言えるが、そうではない条件であればこの仮説は正しいとは言えない。そういったように、どういったときに仮説が正しいと言えて、どういったときにまちがいと言えるのかをきちんと明らかにしておく。それをやらないで、たんに証拠がないからといって、そこからとれる仮説が無条件で正しいことにはならないのがある。その仮説がまちがっていて反証されるのだとすればそれはどういったさいにそうなるのかを明示しておくようにしたい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫反証主義』小河原(こがわら)誠 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)