共産党には暴力性があるのか―共産党の表象と生の姿

 共産党は暴力にうって出ることを党の綱領に盛りこんでいる。テレビ番組の出演者はテレビ番組の中でそう言った。出演者が言ったことはまちがいだったことがわかった。共産党はこれを受けて番組にたいして抗議をしている。

 暴力を辞さないのが共産党だとテレビ番組の出演者が言ったことはまちがいだったことがわかったが、この発言についてをどのように見なすことができるだろうか。

 共産党についてを負の含意をこめた形で表象(representation)する。負の含意をこめた形で表象することによって、まちがったとらえ方につながった。

 まちがったとらえ方にならないようにするためには、含意をこめないようにしてできるだけ中立に見て行く。事実とはことなった表象にはならないようにして、できるだけ事実にねざしたそのもののすがた(presentation)をとらえるように努めて行く。

 表象とそれそのものとがずれてしまう。テレビ番組などではそれがおきがちだ。表象には含意がこめられることが多いから中立にはなりづらい。表象として言われていることがそのまま報道でたれ流されてしまう。表象がそのまま報道でたれ流されると、表象とそれそのものとのあいだのずれが深まって行く。

 そのものとはずれた表象を通用させることがテレビ番組ではされがちである。ずれた表象を流通させてしまう。えてしてテレビ番組ではそういった形で番組がつくられて流される。テレビの世界は商売によるから、効率が重んじられる。いかに数字を高めて利益を高めるかに力を注ぐ。視聴者への受けの高さをねらう。適正さはないがしろにされる。

 いまにはじまったことではなくて、戦前のころから日本では共産党は悪く見なされてきた。お上によって弾圧された。排除された。天皇制にとって都合が悪いからだ。戦前のあり方がいまにも引きつづいているのだ。戦前のあり方への反省が日本には欠けていることによる。

 戦前から共産党は悪く言われてきたのがあるが、それがいまの時点においてまたぶり返している。戦前からの悪いあり方が反復されている。共産党を悪玉化することによっていままでのあり方をそのまま保ちつづけようとする。共産党や野党を叩くことによって差別のあり方が固定化されて深刻化して行く。戦前にはそれが見られた。

 表象としては悪く言われがちなのが共産党だが、その表象はいったん置いておくとしてあらためて見てみたい。あらためて見てみると、むしろ日本のいまの政治の世界の中で相対的にはいちばんしっかりしているのが共産党だろう。いちばん支持されていていちばん議席の数をもっているところが、いちばんしっかりしていない。支持されている数や議席の数と、中身や内容とが相関していないのである。

 暴力については、共産党よりもむしろじっさいにいま権力を持っているところを見るべきだ。じっさいに物理の暴力が振るわれることはそれほど多くおきることではない。その地域の物理の暴力を独占している反社会の勢力のようなものが政治の権力者である。国の政治の権力は反社会の勢力に等しいところがある。

 反社会の勢力に等しいところがあるのが国の政治の権力であり、それに歯止めをかけるためには立憲主義がいる。いまの日本の政治では立憲主義が壊されてしまっているから、歯止めがうまくかかっていない。独裁のあり方に横すべりしているところがある。

 じっさいに共産党がそうであるわけではないが、なにも共産党にかぎったことではなくて、国の政治の権力は暴力をうしろだてにしてなりたつものだ。たびたび物理の暴力を振るうのではないにしても、国家装置である軍隊や警察をかかえていて、それによって反社会の勢力のような形で国の中を支配している。

 反社会の勢力の力が強まっていて、それにしたがう人が多く出てしまっているのがいまの日本のありようだろう。テレビの世界には政治の権力に自発に服従する出演者が多い。これは報道機関が国家のイデオロギー装置であることから来ている。

 じっさいに共産党がそうなのではないが、共産党が暴力を辞さないから危ないのであるよりも、国家の公が肥大化することに危なさがある。国家の公が個人の私を押しつぶす。国家の公の肥大化にいままさに加担しているのが共産党だとは言えそうにない。それに加担しているのはテレビの世界をふくめた国家のイデオロギー装置だ。報道機関が権力チェックをほとんどしなくなってしまっていて、国家の公の肥大化に手をかす。共産党や野党を悪玉化するのはそのあらわれだろう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)