かつての五輪といまの五輪―かつてよりもいまのほうがより下降しているところがある

 五輪といまの社会とを、時系列によって見てみたさいにどういったことが言えるだろうか。いまとかつてのあいだのいまかつて間の交通によって見てみたい。

 前回の一九六四年の東京五輪のときは、いまよりは、みんなでいっしょになってテレビで五輪を観戦しやすかった。五輪を共有しやすかった。

 いまはテレビよりもさらにすすんでスマートフォンの時代だから、かつてよりもさらに人々のあり方が細分化されている。老若男女の個人のそれぞれが小型で高性能のコンピュータを少なくとも一台は持っているくらいに広まっている。それぞれの好みに合ったものを自由に受けとれるから、ものごとをみんなといっしょに共有しづらい。好みが細かく分かれている。

 五輪の受けとり方と同じように、社会もまた一つの同じ型にみんながはまるようではなくなっている。前回の一九六四年の東京五輪のころは、お上が決めた一つの標準の型にみんながはまりやすかった。型が通じやすかったのがあり、それによって日本の経済は大きく成長することができた。

 戦後において日本でとられた型は、家庭と学校(教育)と会社(労働)の三つがうまく流れていた。うまく循環していた。政権はあまりものごとに手を加えなくてもよかった。放っておいてもうまく型が流れていたのである。それがいまでは型がうまく流れなくなっている。家庭と学校と会社のそれぞれがまずさを抱えている。

 かつてと比べていまは一つの型が通じづらい。型からこぼれ落ちる人が少なからず出てきている。型が時代に合わなくなっていて、現実とずれているのだ。それぞれの人の生きるあり方がさまざまになっていて、生が多様化している。

 それぞれの人の生き方がさまざまになっていて、型にはまらなくなっていることで、生きる上での苦悩がおきている。その苦悩がすくい上げられていない。個人が悪いことにされてしまっていて、個人のせいにされている。個人が苦悩を抱えこむことになる。社会の価値観のおかしさが見直されることが行なわれていない。制度の正義が時代と合わなくなっているのが見直されず、そのままになっている。

 かつてと比べていまは正義が機能しづらくなっている。かつてであれば、戦後に東西の冷戦があったので、日本が属している自由主義の陣営に正義があるといったことで、いちおう大きな物語がなりたっていた。いまは大きな物語の図式がなりたちづらくて、小さな物語しかない。

 いまはかつてとはちがって大きな物語がなりたちづらくて小さな物語しかなりたたないから、人々がよりばらばらになりやすい。正義が機能しづらいので、人々がお互いに結びつき合いづらい。それで分断がおきることになる。

 国をあげて五輪が盛り上がっているのがあるが、かつてといまとを比べてみると、かつてよりもいまは五輪と社会のあり方がともにいろいろな疑問点をもつことになっている。五輪にはさまざまな疑問点があるし、社会のあり方にもさまざまな疑問点がある。かつてよりもそれがより強まっている。

 むりやりに人々をまとめ上げようとするもよおしなのが五輪だ。それをごういんにやろうとしていることで色々なおかしさが浮きぼりになっている。かえって人々がまとまらずにばらばらになっているありようが浮かび上がってくる。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっていることでなおさらそれがうながされる。

 かつてよりもいまはグローバル化がより進んでいるのがあり、それぞれの国のあちこちに穴が空いている。穴ぼこだらけになっている。あちこちに穴が空いてしまっているから、国が大きな物語としてなりたちづらくなっていて、小さな物語でしかなくなっている。その中で国家主義(nationalism)が強まっているのは危ないことであり無視することができない。

 正義が機能しなくなっていて、大きな物語がなりたちづらく、小さな物語しかなりたたなくなっているために、少なからぬ人々が苦悩を抱えこまざるをえない。かつてよりもいまはそれがより強まっているのがあり、その中で五輪が行なわれているが、五輪がその救いになるものだとは言えそうにない。よくても一時のごまかしになるていどにとどまるものだろう。

 参照文献 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘 『社会を結びなおす 教育・仕事・家族の連携へ(岩波ブックレット)』本田由紀 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『現代思想を読む事典』今村仁司