首相による式典のあいさつで原稿の読み飛ばしがおきたわけ

 紙がのりでくっついていたために、そのところを読み飛ばしてしまった。広島県でおこなわれた式典のあいさつで首相が原稿の一部を読み飛ばしたことについて、政権はそう言っている。紙にのりをつけた事務の作業をした役人のせいだとしている。

 広島県で行なわれた原子爆弾の被害者の式典で、菅義偉首相が原稿を読み飛ばしたのは、紙にのりがくっついていたためなのだろうか。

 ほんとうに紙にのりがくっついていたことで首相が読み飛ばすことになったのかは定かではない。物としての証拠(evidence)を示してくれるのでないとならない。じっさいにのりがくっついている原稿の紙を証拠として示してくれるのでないと確からしさがうすい。

 首相が読み飛ばしをしたことは現象であり、その現象が結果としておきたことの原因は二つの可能性があるだろう。一つは原稿を読んでいた首相のせいであり、もう一つは首相ではない他のもののせいなのがある。

 原因をどこに帰属させるのかで、首相の内に帰属させるかそれともその外に帰属させるかがある。外に帰属するのだとすれば、政権が言っているように原稿の紙のせいにするのがある。事務の作業をした役人のせいだ。

 かりに外に帰属するのだとしても、いぶかしい点がいくつかある。大事な式典に使う原稿の紙に、うっかりと誤ってのりをつけてしまったとするのなら、作業のやり方が雑である。紙にうっかりと誤ってのりを付けてしまってはいないかどうかを確かめることがあってよいはずだけど、その確かめることもまたやっていなかったことになる。神経が行き届いていなさすぎる。やっつけ仕事のようにやっていて心がこもっていない。

 のりの付きぐあいとして、どのていどの量ののりが紙に付いたのだろう。ほんのちょっとだけまちがったところにのりが付いたくらいだったら、それほどさしさわりはないものだろう。ものすごい多くの量ののりが紙についたとしたら、ふつうはそれに気がつくものだろう。べたーっとかなりの量ののりが紙についていたら、のりを紙にたらしてしまった時点で気がついてもよいものである。

 紙にのりを付ける作業をした役人のやったことがかりに雑なのだとしても、それをちがう別の人が確かめなかったのはなぜなのだろうか。首相のまわりの人間が紙をめくってみるなどしてためしに確かめることがあってよいはずだ。印刷してある内容にまちがいがあるかもしれないから、内容や紙のぐあいの不備をたしかめることがあってよい。

 首相は紙の原稿を受けとったさいに、なぜその紙のぐあいを自分で点検してみなかったのか。いちおうは確かめてみることがあってよいのがある。ことわざでは備えあればうれいなしと言われるから、さらっとでよいから少しくらいは紙に記されている内容を見ておいて、そのついでに紙のぐあいをちょっとは確かめておく。それすらしなかったことになる。少しは紙に記されている内容をさらっておくことすらしていない。ぶっつけ本番である。出たところ勝負だ。

 紙の現稿を首相が式典の中で読んでいるさいちゅうに、紙にのりがくっついていることにふと気がついた。そこでなぜ首相はそのことをとり沙汰しなかったのだろうか。とちゅうで政権の関係者を呼んで、紙のここにのりが付いていて原稿が読めないぞと言って、予備の原稿の紙に変えてもらう。または、式典に出席している人たちに向けて、その場で紙にのりが付いていて原稿の一部が読めないことを謝る。そうしたことがあってもよい。かならずしも何のことわりもなしに読み飛ばさないとならないわけではない。

 首相ではなくて、首相の外である原稿の紙が悪い、または役人が悪い。そうするのだとしても、そもそもの話としては、紙にのりを使うのではなくて、ほかのホッチキスなどを使っていればよいものだろう。紙にのりを使ったらまずいことがおきるかもしれないのだから、想像力をはたらかせれば避けられるはずだ。ささいなことではあるが、危機管理ができていない。

 首相の外にあるものが悪いとするのにしても、首をひねるところがいくつかあり、そのことをくみ入れると、首相の内に悪さがあるのだと見なすことがなりたつ。首相の内かそれとも外かのどちらに原因を帰属させるのかがある中で、外に原因を当てはめるにしても変なところがいくつかある。首相の内に原因を当てはめてみれば、それなりにきれいに説明がつく。首相の内にまったく原因がなかったとは言えそうにない。

 参照文献 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章