五輪がもたらす喜びと、苦におちいることとの対照性―喜と苦との対照性と矛盾

 五輪をひらいたことは、ウイルスの感染の拡大とは関わりがない。そう言われているのがあるが、それは正しいのだろうか。

 東京都の夏でいまひらかれているのが五輪だが、それをひらいたことによって新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が大きく増えたわけではない。ウイルスの感染が大きく増えたことの原因または要因ではないのが五輪だ。そのように言われているのがある。

 かりに、ウイルスの感染が増えたこととは関係がないのが五輪なのだとしても、それはそれでまずいところがある。かりに関係がないのだとしても、ウイルスの感染が増えていることは現実におきていることだ。その現実におきているやっかいなことがあるいっぽうで、五輪がひらかれているのだ。

 ウイルスの感染が増えていることは苦であり、五輪がひらかれていることは喜だろう。日本勢がたくさん金メダルをとっていることで喜びでわいている。一方は苦であり他方は喜であることで、対照性(contrast)がおきている。

 連続しているのではなくて切断されていることで対照性がおきることになる。連続しているのであれば、一方から他方への交通がなりたつ。切断していて対照性がおきているのであれば、一方と他方が別々になっていて反交通になっている。質が異なっていて、交通がさえぎられている。

 没交渉になっていて、反交通になっているのが喜と苦だ。そう言えるのがあるわけとしては、あらためて見ると、なぜ東京で夏にいま五輪がひらかれているのかの理由は定かではない。それは自明なことではない。複雑系(complex system)によって喜や苦がおきるから、なぜあるところでは喜がおきて、別のところでは苦がおきているのかの合理の説明はなりたちづらい。喜や苦のそれぞれの現象がおきている意味は正確にはよくわからない。

 お互いに関係があるかどうかは置いておくとしても、対照性があるとは言えそうだ。苦と喜びがある中で、どちらの方をより重んじるべきかといえば、苦のほうだろう。苦がすぐとなりにあるのに、喜があることは許容されるとは必ずしも言えそうにない。

 喜だけをとり上げて見てみれば、それはよいものだろう。喜のとなりにある苦を切り捨てて捨象すればそれは言えるが、苦がすぐとなりにあるのだとすればまたちがってくる。苦がすぐとなりにあるとすれば、その条件をくみ入れるようにして、喜よりも苦を重んじることが倫理的(ethical)なのが一つにはある。

 日本は世界の中でアメリカとイギリスをよしとしているところが大きいから、新自由主義(neoliberalism)がとられている。英米新自由主義をとることによって、自己責任論がいわれて、個人が苦におちいっていることがとり上げられづらい。個人の苦を軽んじるところがあり、当人が悪いのだとされがちだ。

 苦と喜がとなり合っているさいには、喜によって苦が見えづらくなってしまう。喜が苦をかき消してしまう。苦のところをしっかりと力を入れて見て行くべきなのが、喜の方に目が向いてしまう。

 日本の報道では、苦ではなくて喜の方に重みが置かれている。ほんらいであれば、喜ではなくて苦の方に重みを置くべきだろう。喜を重くあつかってしまうと、苦のところにあるいろいろな声がすくい上げられなくなる。苦の中にあるすくい上げられるべき声がとり上げられない。

 もしも関係がないのだとしても、関係がないからこそまずいといったこともありそうだ。関係がないからこそまずいとは、関係がないからよいのではなくて、関係するべきだといったことである。ほかのものとの関係があることは否定できないのだから、関係して行くべきである。関係して行くとするのであれば、喜を優先させるのではなくて苦を優先させるようにするべきだろう。

 すべての人を五輪が巻きこんでいるとはいえず、中には巻きこまれていない人も少なくはないだろう。巻きこまれていない人の中で、ウイルスの感染で苦におちいっている人がいるし、そうではない形で苦におちいっている人もまたいる。そうした苦のところをしっかりととり上げて行くことがいるのであり、そのさまたげとなるのが五輪で喜がおきることである。そうした形での関係もあるから、ウイルスの感染にかぎらず、総合として関係についてを見て行ける。

 すべての人が五輪に巻きこまれているとはいえず、関心の濃さとうすさのちがいが人それぞれによってある。大いに関心があるのだとしても、肯定の関心もあれば否定の関心もある。関心がうすい人もいる。五輪からの恩恵の受け方でも、その濃さとうすさがあり、濃い人もいればうすい人もいる。関心や恩恵がなくても、税金だけは負担させられるといったことがある。

 五輪の恩恵を受けていないで、ウイルスの感染その他で苦におちいっている人がいる中で、五輪の喜が正当性をもつのかどうかはうたがわしい。まちがいなく五輪をひらいたことが許容されることに当たるとは言い切れないものだろう。じかにではないとしても、間接に五輪が害や損を生んでいるところがあるから、まったく無害ではないし、まったく損を生んでいないとは言えない。

 五輪がもたらす益と害や損があるうえで、益はうすくて害や損は大きいといった人が中にはおきてくる。益と害や損のかたよりがあることを無視できない。五輪からの利益の分配と負担の分配は、まったく公平なものだとはいえず、不公平さがある。受益者だけが負担を負っているとはいえないので、そのおかしさがある。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『「複雑系」とは何か』吉永良正