夏の東京五輪はひらくようにするべきなのか―五輪のあるべきあり方

 出場する選手のためにも、夏の東京五輪をひらくべきだ。そう言われているのがあるが、はたして五輪をひらくようにするべきなのだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるのにちがいない。

 たしかに、五輪がひらかれることを楽しみにしている人はそれなりにいるものだろう。どれくらいそうした人がいるのかは定かではないが。

 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が社会のなかで広まっている。そのなかで五輪をひらくかどうかを決めるのは難しいのがある。その難しさはあるものの、それとは別に、そもそもの話として見てみたい。

 そもそもの話として見てみられるとすると、そもそも五輪はひらかれないほうがよい。そのように見なしてみたい。このさいの五輪とは、いまの形での五輪をさす。いまの形の五輪は商業主義になりすぎている。そこにおかしさがある。

 極大と極小の二つがあるとすると、極大のかたちでの五輪ではなくて、極小のかたちにする。そのようにして五輪をひらくべきだろう。できるだけ商業主義をもちこまないようにする。職業的なプロフェッショナルな選手は出場しないようにして、アマチュアだけの大会にする。こぢんまりとした大会にする。

 大会をひらくところはつねにギリシャに固定化すれば、いちいちどこでひらくかを悩まないですむ。洋服を着ることでいえば、持っている洋服の数が多すぎると、どの洋服を着るべきかが決められなくなりやすい。たった一着しか洋服をもっていなければ、どの洋服を着るべきかで悩むことがない。はだかで町に出ることはできないから、洋服を着るか着ないかではあまり悩まないものだろう。悩むことでかかることになる労力や資源が大幅に節約される。

 極大のかたちだと、商業主義になりすぎてしまい、不純なものになって行く。いろいろなものに利用されることになってしまう。そうなってしまうのを改めるようにして、極小の簡素なものにして行く。極小にすることによって無駄なものが削ぎ落とされることになり、何が核となるところなのかが見えやすくなる。

 盛り上がるようにするよりは、その逆に盛り下がるようにして、落ちついたものにする。落ちついたなかで、平和の祭典であることから、世界の平和に思いをいたすようにする。世界のさまざまなところで争いがおきているのがあるとすると、その現実を見すえながら、平和の価値によって現実のまちがったところを批判して行く。

 五輪をひらくことを決める過程のなかで五輪に関わる日本の組織ではさまざまな不祥事がおきている。これの意味するところは、五輪に関わる日本の組織による目的の喪失だ。五輪がもっている目的を見失っていることをあらわす。目的と手段が転倒していて、手段が自己目的化されている。

 いまいちど改めて見直すことができるとすると、他律として慣習になっているいまの形の五輪をそのままひらくのではなくて、それを自律として反省して行く。いまの形の五輪をただひらくだけなのであれば、他律の慣習によるだけである。ただたんに五輪をひらくようにするだけなのであれば、自明性があることになるが、そこを異化して行く。

 大会をひらくかひらかないかとはちがった視点として、自明性があるものとしてだけ見るのではなくて、異化するようにしてみて、極大の形を改めて極小の形にすることを探るようにしてみてもよいものだろう。異化して見てみるようにすれば、極大の形の大会のあり方を相対化することができるし、いろいろな批評(criticism)がなりたつものだろう。盛り上がるのをよしとするのだと、その盛り上がりの中で負のところがごまかされてしまいやすいが、盛り下がるようにして落ちついて見るようにしてみれば、異化しやすいのがある。

 参照文献 『シドニー! コアラ純情篇 ワラビー熱血篇』村上春樹 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき) 熊野純彦(くまのすみひこ)編