アメリカの大統領選挙と、国の政治の権力が一つだけの有限性や希少性や制約と、力(権力)への意志

 アメリカの大統領選挙では、いまだにドナルド・トランプ大統領がねばりつづけている。大統領の地位を手放そうとはしていない。大統領の地位に恋々(れんれん)としている。その中でジョー・バイデン氏は大統領の地位につく準備を着々と進めていっているという。

 アメリカの大統領選挙においておきていることをどのように見なすことができるだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるのにちがいないが、やっかいなこととしては、国の政治の権力者は一つしか認められないことだろう。そこに有限性や希少性や制約がかかっている。もしも二つあってよいとなっていたら、トランプ大統領とバイデン氏の二人が両方とも大統領であってもよい。

 国の政治の権力は、一人の人が権力者として社会の中から排除されることによってなりたつ。上方に排除されることで外に叩き出されて国の政治の権力者となる。国の政治の権力は空虚な中心であり、それが充てんされるさいに権力がさん奪される性格をもつ。そう言われている。

 一つの国はリヴァイアサンだが、その全体の部分として部分勢力であるビヒモスがあるとされる。たとえ一つの国としてなりたっているように見えるのだとしても、それは虚構のようなものであって、その中に部分勢力としてのビヒモスを抱えこんでいる。いっけんすると国の全体がまとまっているようであったとしても、潜在としては部分勢力であるビヒモスがいて、哲学者のテオドール・アドルノ氏が言うように国の全体は非真実となっている。

 国のあり方としては、内乱や内戦で争い合うのと、独裁国家と、立憲主義(憲法主義)の国家との三つがある。学者の木村草太(そうた)氏はそう言っていた。このうちでいまのアメリカは内乱や内戦で争い合うところに転落してしまっているのがあるかもしれない。

 内乱や内戦で争い合うのはいちばん下のもので、それよりもややましなのが独裁国家で、絶対の主権国家だ。一権や一強だ。それよりもましなのが立憲主義の国家で、自由主義(liberalism)で権力の分立がとられて抑制と均衡(checks and balances)による。権力の分立は個人の基本の人権を守るためにある。個人の人権を守るために国の統治機構が分散されてお互いにけん制し合う。日本の憲法では、まず人権論があって、それをなすために統治機構論があるといった流れになっている。

 内乱や内戦で争い合うのは不毛であり、部分勢力であるビヒモスどうしが争い合う。リヴァイアサンとして国の政治の権力者が排除されて外に叩き出されていない。社会状態(civil state)になっていなくて自然状態(戦争状態 natural state)となっている。自然状態では人がもつ自己欺まんの自尊心(vain glory)にかられて万人による万人の闘争がつづく。

 自然状態から社会状態に移るためには、人がもつ自己保存を相対化することがいる。自己保存を相対化するのは西洋の弁証法止揚(しよう aufheben)に当たる。正と反と合で、止揚になることで合にいたる。自己保存を絶対化してしまうと正と反が合にいたりづらい。合にいたらせるためには自己保存を相対化するようにして、味方と敵とがはげしくぶつかり合うことを和らげることがいる。よき歓待や客むかえ(hospitality)が求められる。

 参照文献 『リヴァイアサン長尾龍一憲法という希望』木村草太 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月現代思想を読む事典』今村仁司編 『抗争する人間(ホモ・ポレミクス)』今村仁司 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)