日本の国をよしとするお笑い芸人の人がおもんないとツイッターのツイートとハッシュタグで言われていた

 愛国で右寄りのお笑い芸人にたいして、おもんない(おもしろくない)ということが、ツイッターのツイートで言われていた。おもんないということがツイッターハッシュタグで言われていて、それにたいして言われたお笑い芸人は、法の手段でうったえることをほのめかしていた。

 お笑い芸人はおもんないと言われたことにたいして法の手段にうったえることを言っていたが、これが意味することはどういったことだろうか。その意味するところとは紛争(もめごと)がおきていることであり、それを何とかするために法の手段にうったえることもありえるということだろう。

 紛争がおきている点では、日本とまわりの国とのあいだにもおきているのがあり、それを何とかするために、お笑いによる肯定のあり方を用いることはできないものだろうか。紛争がおきているのは緊張がおきていることであり、それを少しでも和らげて緩和して行く。文化の力によって緊張が和らいで緩和できればのぞましい。

 お笑いによるあり方を用いることができるとすれば、たった一つだけの視点によって、日本は正しくてまわりの国はまちがっているということで決めつけないようにしたい。いくつもの視点からとらえるようにして、色々に見られることをくみ入れるようにして、一つの視点だけによるのではないようにして行きたい。

 日本は正しくてまわりの国はまちがっているというたった一つの視点だけによらないようにすれば、おもんないということを少しは改めることの役に立つ。おもんないということは、たった一つだけの視点によってしまっていて、それにこりかたまっている。たった一つだけの視点が教義(ドグマ)や教条と化す。日本は正しくてまわりの国はまちがっているというのだけが正しいとしていることからおもんなくなるのだととらえられるとすると、それを改めるようにして行く。

 日本の国はまちがいなく正しいということを自明としてしまうとおもんなくなってしまう。そうであるとすると、自明であるとするのではなくて、その厚い殻を壊すようにして行くようにして、日本は正しくてまわりの国はまちがっているという視点だけが正しいものだとはしないようにして行く。ほかの視点でもまた見られるのがあり、日本の国にもまた少なからず悪いところがあるのだという視点がもてる。

 戦前や戦時中は、日本の国だけが絶対に正しいという言説を言うことだけが許されていたのであり、そうしたあり方はおもんなかった。認知のゆがみがどんどん深まって行く。そのおもんなさは基本として表現の自由が許されていなかったことから来ていた。たった一つだけの日本の国だけが絶対に正しいという視点だけがよしとされていて、それ以外の言説を言うことが許されないという許容度のきわめてせまいものだったのである。

 戦争に敗戦したことで、それまでよりも表現の自由の許容度が高まり、色々な言説を言うことが許されるようになって、少しは面白くなるようになった。日本の国のことを批判する言説も許容されるようになったので、それによって少しは面白くなるように改まった。それがまた逆もどりして、戦前や戦時中のように、日本の国が絶対に正しいという言説だけが許されるのだとおもんなくなる。

 表現の自由の許容の度合いが高いほうが面白くなりやすいのがあり、それが意味することとしては、人々が思想の自由市場(free market of ideas)において色々な思想に触れやすくなることになる。人々が使うことができる資源の量と質が増える。戦前や戦時中の言論の許容度の度合いがせまいときは資源の量と質がきわめてとぼしかったのがあり、それによっておもんなかった。戦前や戦時中の日本の国は全体として創造性が高くなかった。いまもまだ日本の国は創造性が高いとは言えないところがあり、それは日本の国は絶対に正しいという言説が力を持ってしまっていることから来ているのがある。

 参照文献 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『うたがいの神様』千原ジュニア 『人間は笑う葦である』土屋賢二 『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン 森村進 森村たまき