ウイルスの感染がある中で政府の Go To キャンペーンによって旅行に行っても大丈夫なのだろうか

 旅行そのものはウイルスの感染にはつながらない。感染を防止する対策をしていれば旅行をしても大丈夫だ。専門家や政権の大臣はそういうことを言っていた。

 新型コロナウイルスの感染を防ぎつつ旅行をする。このさいに、そこで言われる旅行(そのもの)というのは、ウイルスの感染にはつながらないものだという定義づけがされてしまっているように見うけられる。旅行そのものはウイルスの感染にはつながらないというか、ウイルスの感染にはつながらないものとして旅行を定義づけしてしまっている。その定義づけはふさわしいものだとは言えそうになく、じっさいの現実の旅行というのは、ウイルスの感染がおきるおそれがおきてくるものだから、それをくみ入れたほうが現実的だろう。

 ウイルスの感染の防止の対策というのは、人それぞれによってとらえ方がちがってきそうだ。旅行をするさいに、感染の防止の対策をすることがいるといっても、それをどうとらえるのかが人によってまちまちになるのがあるから、きっちりとしたものからゆるいものまでをふくむ。幅がある。

 政権は、ウイルスの感染の防止の対策についてをあいまいにぼかしていて、人まかせにしてしまっているのだとすると、そうではなくて、そこをきっちりとはっきりとさせたほうがよいだろう。そうでないと、感染の防止の対策とひと口にいっても、それについて思い浮かべることが人それぞれによってちがってきてしまう。

 ウイルスの感染を防止するさいには、どうでなければならないという必要条件をあげて行ける。その必要条件をもれがないようにあげて行き、ぜんぶにもれがなくぜんぶの条件を満たすことができたときにはじめて感染が防げることになるとすると、どういうことをしなければならないのかが複数ある。その複数の条件をもれなく明示化するとわかりやすい。

 何かものを買うさいには、その必要となる条件として、自分がお金を持っていないとならない。さらに、商品があり、互いに人どうしが交渉ができる、などの条件をあげられる。それらが満たされてはじめてものを買える。もっというと、地球があるとか、空気があるとか、大地があるとか、そういう(遠い)条件もまたあり、切りがないといえば切りがないものだとされる。

 旅行に行っても大丈夫なのだと言えるためには、その大丈夫だというのはすべての必要条件もしくは十分条件がもれなく満たされることによってなりたつ。じっさいには、大丈夫だとは断言するまでにはいたらず、おそらく大丈夫だろうというがい然性になってくるのかもしれない。そうなるとウイルスの感染に不安要素がおきてくることになる。旅行するさいにあまり厳密に対策をきっちりとやりすぎると、旅行としての面白みが欠けてくるような気がする。そうしたことで気をゆるめてしまうとウイルスの感染がおきてしまうことになるからたいへんだ。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『発想のための論理思考術』野内良三(のうちりょうぞう)