個人の問題と社会の問題の呼応性―相互作用で見られる

 問題をかかえている人がいる。このさい、その人がかかえる問題が何とかなれば、よい状態になって、うまく行くようになる。

 その人が問題をかかえることによって、社会の問題がわかるようになることがある。その人が自分でかかえる問題を何とかするのではなくて、社会が問題をかかえているのだと見なす見なし方がなりたつ。

 その人が問題をかかえることによって、社会に問題があることが浮きぼりになる。そのさいに、その人が問題をかかえているのとともに、社会が問題をかかえているとも言えるのがあって、社会がかかえている問題を何とかすることがあってよい。

 個人が変わるようにするか、それとも(個人をとり巻く)社会が変わるようにするかがあって、社会が変わることがもっとあってもよいのではないだろうか。社会が変わるようになるのなら、個人が変わらないでそのままでいつづけられる。個人があるがままか、それに近い形で、生の質を高められる。

 個人がかかえている問題というのは、必ずしもそうであるだけにとどまらなくて、社会の問題としても見ることができそうだ。いま現にある社会がそのままで正しいとは限らなくて、もしも社会が(いまのようにではなくて)もう少しこうだったらとか、もう少しちがうようであったらとかと見られる。

 構築主義では、ものごとはあらかじめ自然としてそうであるというのではなくて、そうであるように人為として構築されることでそうなったと見られるという。構築されることでそうなったのだから、それはあるていどの可塑(かそ)性をもつ。まったく変わらない不動のものなのではない。ものによっては再構築なり脱構築(deconstruction)なりが行なえる。この見かたが絶対に正しいとは言えないかもしれないが、一つの見かたとしてはなりたつだろう。

 いまとはちがう形で、社会のあり方がよりよいようであるとするのなら、そのさいに個人のかかえる問題が和らぐ。それが見こめることがある。そういう融通がききづらいことが社会にはあって、それが社会の問題であるということもできる。

 社会には問題があるかそれともまったくないかと見なすのだと、一かゼロかや白か黒かの二分法におちいってしまう。そのように完全に二つに分けられるのではなくて、ていどのちがいはあっても、少なからず大中小のさまざまな問題をかかえているのが社会ではないだろうか。

 人それぞれによってとらえ方にちがいが出てくるのはあるけど、それは人それぞれの置かれているあり方にちがいがあるせいもある。その中で、個人の問題と社会の問題に相互作用がはたらいて、その二つがたがいに呼応し合うと見なすことができるかもしれない。

 人間は社会的動物だから、基本としては社会の中で生きて行かざるをえない。社会によって規定されてしまう。思想家のカール・マルクスは、個人の意識はその社会によって規定されると言っている。社会に少なからずよくないところがあるのなら、それがさまざまな形で個人にたいして負の影響としてはたらく。そう見なすことができるだろう。

 参照文献 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『構築主義を再構築する』赤川学 『心理学って役に立つんですか?』伊藤進