外交と間合い―同化(一体化)と批判

 日本とアメリカの外交というさいに、そこでいるのは、適した間合いをとることなのではないだろうか。

 アメリカの言いなりに日本がなるのは、間合いがとれていずに、アメリカとぴったりとくっつきすぎてしまっている。これを外交が上手だということはできそうにない。

 アメリカのドナルド・トランプ大統領は、日本にたいしてきびしいことを言ってきている。アメリカは軍事で日本に多くの益を与えてやっているが、それとつり合うだけの益を日本はアメリカに与えていないと言っている。

 トランプ大統領の主張にたいして、日本の首相は、その場で何も言い返せなかったのだというのだ。これは外交が上手だということになるのだろうか。外交というのとはちょっとずれる部分があるかもしれないが(知識なども関わるので)、そこで反論を言い返せるくらいなのが、外交が上手だということだととらえられる。

 トランプ大統領が日本にたいして言ってきていることには、必ずしも説得性が高くはないことがある。説得性が高くはないことにたいしても、アメリカが大国だからということで、それにたいして何も言い返さずに、ぜんぶをうのみにしなければならないのだとは言えそうにない。説得性が高くはないと受けとれるものにたいしては、それをうのみにはしないようにして、理想としては言われたその場で反論する(反論できる)のがのぞましい。

 外交というのは、アメリカと日本がぴったりとくっついて、同化しようとすることではないのではないだろうか。もしそのように同化しようとしてしまうのであれば、アメリカと間合いをとれていることにはならない。

 親米か反米かというふうな二分法によるのではなくて、ちがう見かたがなりたつ。学者の井上達夫氏が言っているのだが、警米というのがあってもよいのである。アメリカを警戒するということだ。日本人が、その時の政治の権力を警戒するという、警日というのでもまたよいのである。

 アメリカの大統領が言うことであっても、それがすべて肯定つまり実証や確証ができるものではなくて、中には否定つまり反証ができるものが少なくないのにちがいない。これは日本の首相が言うことにもまた当てはまることである。

 大統領や首相が言っていることや、言っていることのもとになっていること(根拠)のもつ確からしさが十分ではないことは少なくない。そうであるさいには、その確からしさが十分ではないことをしっかりとさし示して、そこの不備を見て行って、非があることを言って行くことがいる。それを言わないで、見のがしてしまうのであれば、政治においてやることやなすことがずさんになってしまい、よくない結果が出かねない。

 大統領にたいして反論をするのは失礼に当たるのかというと、そうとは言えそうにはない。言い方がきつすぎると面子(めんつ)をつぶしてしまう危険性があるのは確かだが、大統領が言っていることはたんなる一つの判断や仮説にすぎない。

 発言者と発言(判断や仮説)というのは、人格と議論ということであって、この二つのあいだには間合いが空いていると見なせる。二つを一つとして見るのではなくて、分けて見られるのである。分けて見られるとはいっても、修辞学では、それらを関連するものとして見られるのもあるそうだが。そこについては、情報の経路(発言者)の信頼性などが関わる。

 判断や仮説というのは、そのままで正しいものではなくて、十分に確かめられなければならない。反対となる説などとつき合わせて見ることがいる。意見というのは異見であって、それとは異なるものもまたあるので、そちらのほうが正しいことはなくはない。

 学者の井上達夫氏は、アメリカにただ従って行くのは随米だと言っているのだが、そうすることによっていっけんするとアメリカと日本はうまく行っているかのように見えて、じっさいにはそうではないという見かたもまたなりたつ。アメリカと同化しようとするのではなくて、間合いをとるようにして、言うべきことを言うことができたほうが、アメリカから尊敬を勝ちとれるということもまたあるのではないだろうか。うまくすればということではあるが。

 参照文献 『間合い上手 メンタルヘルスの心理学から』大野木裕明(おおのぎひろあき) 『憲法の涙 リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください二』井上達夫反証主義』小河原(こがわら)誠 『「論理的に話す力」が身につく本』北岡俊明 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり)